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大垣まつり

大垣まつり

NEXT2025

5/10Sat.11Sun.開催

平成28年12月1日、ユネスコ無形文化遺産に登録

 文化庁から国連教育科学文化機関(ユネスコ)に登録提案されていた本市の「大垣祭の軕行事」を含む「山・鉾・屋台行事」は、平成28年12月1日にエチオピアで開かれた政府間委員会で審査され、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。
 大垣市の文化財としては、初の登録となります。


 大垣祭の特色
 大垣祭の軕行事は、大垣の城下町祭礼として伝承されてきた美濃地方を代表する祭礼行事であり、大垣藩主下賜(かし)の軕と町衆の軕が併存する形態は全国的にも希少です。
 また、からくり人形には中京圏の山車(だし)行事、軕上(やまじょう)の芸能には近畿圏の山車行事の影響が色濃く、東西の祭礼文化の交渉がうかがわれるなど、国内の山・鉾・屋台(やま・ほこ・やたい)行事の伝播や変遷を理解する上で重要であると評価されています。


ユネスコ無形文化遺産登録記念映像 短編
ユネスコ無形文化遺産登録記念映像 長編



大垣まつりとは

370年余の伝統を誇る大垣まつり

 大垣まつりの軕の起源は、慶安元年(1648)に大垣城下町の総氏神であった八幡神社が、大垣藩主戸田氏鉄公により再建整備されたおり、城下18郷が喜びを御輿3社の寄付で表し、大垣10か町が10両の軕(出しもの)を造って曳回したのが始まりと伝えられています。

 延宝7年(1679)、藩主戸田氏西(うじあき)公から、「神楽軕」「大黒軕」「恵比須軕」のいわゆる三両軕を賜り、それを機に10か町は、軕の飾りつけに趣向を凝らしていきました。

 濃尾震災や先の大戦によって多くの軕を失いますが、その後、修復や復元、購入などにより再建が進められ、平成24年に2両の軕が復元され、70年ぶりに全13両軕が勢揃いしました。

平成27年 国重要無形民俗文化財指定
平成28年 ユネスコ無形文化遺産登録
370年余の伝統を誇る大垣まつり


13両の軕による華麗な巡行

試楽(土曜日)は、8時30分から八幡神社前で各軕が奉芸を行い、9時30分からは市役所前で掛芸披露をします。その後、軕は自由に市内を巡行し、19時から夜宮を行います。

本楽は、8時30分から八幡神社前で奉芸を行い、その後、13両の軕が行列をなして城下町を巡行します。

 この地方最大の祭りだけに、大勢の人たちが沿道を埋めつくし、軕の美と沿道の熱気が城下町をつつみます。
13両のやまによる華麗な巡行




まつりの見どころ

奉芸

奉芸 奉芸
奉芸
早朝より各軕が順次、八幡神社前で奉芸を行います。



掛芸披露

掛芸披露 掛芸披露
掛芸披露
試楽では、奉芸を終えた各軕が大垣市役所に移動し、掛芸披露をします。
この行事は、かつて大垣藩主が大垣城内に軕を曳き入れて上覧したことにちなんだもので、現在では、藩主に代わって大垣市長がその役を務めています。
本楽では、大垣駅通りで各軕が掛芸を披露をします。



夜宮

夜宮 夜宮
夜宮
夕刻には再び13両軕は八幡神社前に集合します。19時に軕の提灯の点灯を行い、奉芸や軕の回転をした後、曳きわかれます。



巡行

巡行 巡行
巡行
本楽では、八幡神社前での奉芸後、城下町を13両軕が一堂に揃って巡行します。道順は東回り・西回りの年次交代で、2.2里(約8.8km)を巡行します。
さらに本楽の巡行では、16時30分より新大橋から八幡神社前までの間を、御輿と13両の祭軕による「大垣まつり行列」も行われます。



露店

露店 露店
露店
会場には多くの露店が立ち並び、賑やかな祭りとなります。



紹介

神楽(かぐら)軕 【本町・中町・新町】

 この軕は、別名「御払軕」とも「市軕」ともいい、本町・中町・新町の三町内が毎年交替で曳き、常に行列の先頭を行きます。踊りを舞う人形は、巫女と山伏の2体からなっており、舞台の下から人が直接棒で操る大変珍しいものです。
 巫女は鈴を鳴らしながら、静かに祈祷や清めの舞を行い、山伏が両手に熊笹を持ち、湯桶の湯の花を撒き散らして、湯立ての清めを行います。この時に湯の花を撒き散らす紙ふぶきは清めや病魔退散の意味があるとされています。
 人形の巫女の名は昔、大垣の八幡神社に市とよばれる美しい巫女がいたことから、市と呼ばれています。



大黒(だいこく)軕 【魚屋町・竹島町・俵町】

 この軕は、「神楽軕」「恵比須軕」と同じく、藩主戸田氏西公から下賜されたものです。上部には、米俵2俵を置き、その上には、右手に宝槌を持ち、左肩に福袋を荷い、七福神のひとつと教えられている福の神の大黒天がふくよかな笑みをたたえています。
 魚屋町・竹島町・俵町の3町内が年々交替で曳き、この軕の当番町にあたると、町内では、大国主命の使獣である鼠は殺さない習慣がありました。



恵比須(えびす)軕 【船町・伝馬町・岐阜町・宮町】

 延宝7年(1679)、戸田氏西公が恵比須神を祀るにあたって、摂津の広田神社に祀られている西宮の蛭子神に、人を派遣して祈願したといわれています。
 恵比須大神は、左甚五郎作と伝えられ、顔面の塗料が剥げていたので、塗師が塗り替えようと顔面に手を触れた途端、口から火を吹いたといわれています。
 本楽の夜、夜の行事が全て終了し、各町の軕が曳きわかれした後に、その年の恵比須軕責任町から、次の年の責任町に恵比須神のお頭を渡す儀式(お頭渡し)が、古来と同じ手順で今でも行われています。
 この軕は、船町・伝馬町・岐阜町・宮町の4町内が年々交替で曳いています。



相生(あいおい)軕 【本町】

 この軕は、謡曲「高砂」を主題にしたところから、別名「高砂軕」とも呼ばれています。2度に渡り軕が焼失しましたが、平成8年に51年ぶりに復元され、現在13両ある中で一番大きな軕です。屋形人形には尉と姥が置かれ、本軕人形は住吉明神、前軕人形は神主友成が置かれています。
 謡曲「高砂」の四海波に合わせ阿蘇の神主友成は、静かに舞いながら中央に進み、高砂が始まると瞬時に帆掛け舟に変わる場面は見どころの一つです。次に後ろに控える住吉明神のからくり芸が始まり、「袖返し」や「面かぶり」を見せる威風堂々とした姿と町衆の演奏する祭囃子「神舞」は迫力があります。



布袋(ほてい)軕 【中町】

 この軕は、軕上に三層の勾欄を設け、第一層の危亭には布袋人形を置き、第二層では、唐子人形が右手に扇を持って舞いつつ、軕上に向かって右先の隅にある台(榻)に近づき、台上に左手をつき、片手で逆立ちをし、右手の扇を開いて転舞する仕掛けで、離れからくりはこの「布袋軕」だけです。第三層には唐子人形が囃子に乗って舞をしましたが、明治維新の神仏混淆が禁止され、布袋人形を廃して玉串の榊としました。他の人形も加茂明神及び随身の神官に改作し、名を「旭軕」と改名されましたが、明治24年(1891)の濃尾震災で焼失しました。
 明治35年(1902)に再び「布袋軕」として再建されました。昭和20年、戦災により、この布袋軕も焼失しましたが、平成24年に67年ぶりに白木で復元されました。その後3か年の期間をかけて、漆・飾り金具等の工事が行われ、令和5年3月に完成しました。人形は復元前同様「布袋人形」「逆立唐子人形」「采振り唐子人形」の三体で、郷土大垣のからくり人形師、後藤大秀氏の作です。
布袋やま



菅原(すがわら)軕 【新町】

 この軕は、別名「天神軕」とも呼ばれています。大正3年(1914)に再建され、2年後に曳軕をし、8年後には漆塗を行い、現在に至っています。
 軕のからくりは、塩振り・文字書き・額持ちの3体で、文字書きは糸操りと間接扱いの併用ですが、種板を使わないのが特徴で、約2m離れた下から操作する人が筆柱を動かし、一筆で書き上げますが、大変な熟練を要します。
 この軕の見送りは、大橋翆石画伯の筆による「虎」が描かれており、前水引は画伯には珍しいといわれている水墨画の「竜」が描かれています。



鯰(なまず)軕 【魚屋町】

 この軕は、万治元年(1658)に名を「鯰軕」と改めて以降、長い歴史を一貫して鯰押えで通しています。からくり芸は、赤い頭巾を冠り、金色の瓢箪を振りかざした翁が、鐘と太鼓の賑やかなお囃子につられて、水上で踊り狂う大鯰を押さえようとするもので、誠に面白いものです。
 これは、室町時代の高僧が「泥水の中に住むヌルヌルしたウロコのない鯰を、底の低い丸い瓢箪で押えることができるか」と問い、この問題を画僧の如拙が絵に描いたのが国宝「瓢鮎図」で、これをもとにして作られたのが、鯰軕の鯰押えです。



榊(さかき)軕 【竹島町】

 竹島町の軕は、明治以前には朝鮮軕があり、御所車様式の軕を中心に、朝鮮通信使を模した仮装行列で、本来は練り物でした。
 しかし、明治維新の神仏分離令などによって廃止され、代わって登場したのが「榊軕」でした。
 屋形には、榊と神鏡が飾られており、天鈿女命が榊と鈴を持って、静かに神楽を舞います。天鈿女命が白木台の上の鈴と榊を手に握るところが、このからくり人形の見所です。



浦嶋(うらしま)軕 【俵町】

 屋形の中に浦島太郎、その前に乙姫・龍神・亀、前軕は唐子を配置し、謡曲は龍神に関するものを使い、 龍神が舞い、亀が泳いで、その背上の玉手箱を開くと蓬莱山が現れ浦島太郎の面が老人に変わり、亀の口からピンポン玉が飛び出す仕組みです。
 勾欄は朱塗の角形、水引前面の飛竜幕は高波の盛り上がり、下幕は金糸で紅羅紗に大波濤が刺繍してある本楽用のものと、試楽用に白地の幕があります。
 屋形は竜宮城をかたどり半円を描くものであり、見送りの代わりに虎の皮を使用するなど、他の軕に類似しないのが浦嶋軕の特徴です。さらに後軕には登り龍の見事な彫刻をあしらう槍と幟があります。
 昭和17年より人目に出ることはなく昭和20年に焼失しましたが、平成24年に白木で復元されました。
浦嶋やま



玉の井(たまのい)軕 【船町】

 この軕は、初めは石曳軕で、大垣城の石垣を積む折、赤坂の金生山で採取した石を運ぶ車を改造し、軕にしたところからこう呼ばれました。
 その後、江戸中期に石曳軕に変わって登場したのが、一層中壇の前軕に天女の人形を置き、二層の軕の屋形に彦火火出見命の人形を安置し、その前で赤面竜神人形が舞をするからくり軕でした。
 しかし、文化12年(1815)の大洪水で大破し、後に改造され、現在は少年少女の踊りを披露する善美を尽くした芸軕に変わり、舞台で子どもによる舞踊を披露し、観客の目を楽しませてくれてます。



松竹(しょうちく)軕 【伝馬町】

 この軕は、謡曲「竹生島」を題材に作られており、弁財天を首座に配しています。仏教での弁財天は、音楽・弁舌・財富・知恵・延寿を司る女神です。日本では七福神の一人として親しまれ、屋形の奥に祀られます。その前に龍神人形を配し、からくりによって舞う中に、人形の胴が割れて白兎に変じ、餅つきを始めて餅をまき、祭り客にふるまいます。
 また、軕の前部は踊り舞台となって子供舞踊が演じられ、からくりと舞踊を併用した唯一の軕です。水引は「大山水引」と呼ばれ、中国的な絵模様に「瀬田夕照」など近江八景の詩を飾る綴錦です。見送りの絵柄は中国の故事とされる「石公より兵法書巻(免許皆伝の巻物)を張良に授ける図」で、精妙な刺繍で描かれています。
 平成30年に、107年ぶりの大修復が行われました。



愛宕(あたご)軕 【岐阜町】

 愛宕軕は別名八幡軕ともいいます。上段屋形には祭神・神功皇后を祀り、軍扇・太刀を持ち、男装でお座りになり、神功皇后は身重ながら新羅に出征され、凱旋後、応神天皇を無事出産された話が「古事記」にあり、安産の神として信仰されています。
 中段左に武内宿祢、右に狂言師、下段には采を振り先導する麾振り人形を置き、からくり芸は能「弓八幡」を題材とし、老翁が高良の神(武内宿祢の神霊)に変身し、神舞を舞います。神官が箱を開けると二羽の鳩が現れ、豆を拾います。



猩々(しょうじょう)軕 【宮町】

 名を謡曲「猩々」から取ったものです。軕は二層で正面と両脇(一層と二層の間)に千匹猿の彫刻があり、一匹も同じ様相がないといわれています。
 からくり芸は、二層の軕上に大床板(トイ)を突出し、先端に大酒壺を置き、猩々の人形が壺に顔を突っ込み、鯨飲すれば酔って紅顔となります。猩々はたちまち獅子に変わり、大酒壺は割れて大輪の牡丹の花が咲き乱れ、獅子はこれにたわむれ舞い狂います。
 昭和20年7月、戦災で惜しくも焼失した先代の猩々軕が、平成13年3月に56年ぶりに白木で復元され、以降、漆塗り・金具・彫刻が施されました。



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