このページでは、『おくのほそ道』にゆかりの文化財の保存及び観光活用を目的に、「名勝」に加えて、『おくのほそ道』に関連する「登録記念物」で芭蕉の旅路の道程をつなげることを目指し、『おくのほそ道』又は松尾芭蕉に関連する史跡等を紹介しています。
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生誕の地
名勝地一覧
江東区(東京都)
芭蕉翁古池の跡(ばしょうおうふるいけのあと)
公式HPはこちら「芭蕉庵」(『江戸名所図会』)
「本所深川絵図(部分)」(安政5年 尾張屋板)
【指定・登録種別】東京都指定旧跡・江東区登録史跡
延宝(えんぽう)8年(1680)冬に松尾芭蕉が移り住んだ深川(ふかがわ)の草庵「芭蕉庵」の敷地にあった古池の跡で、貞享(じょうきょう)3年 (1686) に詠まれた「ふる池や 蛙飛こむ 水のおと」の俳句で知られている場所です。
芭蕉庵は小名木川(おなぎがわ)の隅田川(すみだがわ)口に架かる萬年橋(まんねんばし)の北詰にありました。この場所は芭蕉の門人「杉山杉風(すぎやまさんぷう)」の所有地で、敷地内には魚の生け簀(いけす)用の池がありました。
芭蕉庵は2度建て替えられており、最初の芭蕉庵(第1次)は天和(てんな)2年(1682)の火災で焼失、翌年門人らによって再建されました(第2次)。その後、元禄(げんろく)2年(1689)に芭蕉が奥の細道の旅へ出る際、人に譲られます。芭蕉庵を引き払う際に芭蕉は「草の戸も 住み替はる代ぞ ひなの家」の句を詠んでいます。旅を終え、芭蕉が江戸に戻った後の元禄5年(1692)、再び門人らによって建てられました(第3次)。
芭蕉の没後、敷地は武家屋敷に取り込まれますが、『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』(天保5(てんぽう)年<1834>・同7年<1836>)には「芭蕉庵旧址」として「同じ橋(萬年橋のこと)の北詰松平遠州候の庭中にありて、古池の形今猶存せりといふ」と記されています。また、「本所深川絵図」(安政(あんせい)5年<1858>)にも「芭蕉庵ノ古跡庭中ニ有」とあります。
時代は下り大正6年(1917)9月の高潮の後、古池の故地(当地)で石の蛙が出土します。ここに祠が築かれ、これが現在の芭蕉稲荷神社(常盤1-3)となっています。さらに、大正10年(1921)には東京府(当時)が「芭蕉翁古池の跡」として史跡指定しました(昭和30年<1955>に旧跡に種別変更)。現在、出土した石の蛙は「(伝)芭蕉遺愛の石の蛙」として江東区芭蕉記念館で展示されています。
採荼庵跡(さいとあんあと)
公式HPはこちら海辺橋南詰に建つ採荼庵跡標柱・説明板・モニュメント
「本所深川絵図(部分)」(安政5年 尾張屋板)
※中央赤枠が「平野町」
【指定・登録種別】江東区登録史跡
採荼庵は、江戸中期の俳人杉山杉風(すぎやまさんぷう)の庵室です。
杉風は正保(しょうほう)4年(1647)に生まれ、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋(こいや)、俳号を採荼庵、五雲亭(ごうんてい)などとし、隠居したのちは一元(いちげん)と名乗りました。家業は魚問屋で、鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町(おだわらちょう)一丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人に数えられ、『常盤屋句合(ときわやくあわせ)』『角田川紀行(すみだがわきこう)』などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したことでも知られ、自ら所有する庵室(後の芭蕉庵)を贈りました。
採荼庵があった場所は、杉風の娘婿である隨夢(ずいむ)の遺言状に「元木場平野町(もときばひらのちょう)北角」と書かれています。平野町は、仙台堀川(せんだいぼりかわ)に架かる海辺(うみべ)橋南詰から万年町(まんねんちょう)二丁目(現、深川1-8)をはさんだ一画でした。現在、海辺橋南詰に文化財標柱と説明板がありますが、実際の跡地は清澄(きよすみ)通り(都道463号)を140メートルほど南西に進んだあたりと推定されます。
芭蕉は「奥の細道」の旅に出る前、芭蕉庵を引き払って人に譲り、しばらくの間、採荼庵で過ごしました。門人たちと別れを惜(お)しんだのち、舟で隅田川(すみだがわ)をのぼり、千住大橋(せんじゅおおはし)付近から奥州へと旅立っていきました。
旧新大橋跡(きゅうしんおおはしあと)
公式HPはこちら「旧新大橋跡」標柱
「新大橋 三派」(『江戸名所図会』)
【指定・登録種別】江東区登録史跡
新大橋は、隅田川(すみだがわ)に架けられた3番目の橋です。初代歌川広重の「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」(安政3年<1856>)に描かれていることでも知られています。
文禄(ぶんろく)3年(1594)架橋の千住大橋(せんじゅおおはし)、万治(まんじ)2年(1659)架橋の両国橋(りょうごくばし)に続いて架橋され、元禄(げんろく)6年(1693)12月7日に渡り初めが行われました。長さ108間(約196m)、幅3間(約5.4m)の木橋で、両国橋(千住大橋との説もあり)を大橋といったことから「新大橋」と名付けられました。当時の架橋地点は現在の新大橋から約200m下流で、東詰が現在の江東区常盤1-6付近にあったとみられます。
橋の東詰近くの芭蕉庵(ばしょうあん)に住んでいた松尾芭蕉は、架橋中の様子を「初雪や かけかかりたる 橋の上」と、さらに橋の完成を喜んで「有難や いただいて踏む 橋の霜」と詠みました。
新大橋はその後、明治45年(1912)に鉄橋として架け替えられる際に現在地に移転しました。
荒川区(東京都)
松尾芭蕉像・奥の細道矢立初めの句碑(まつおばしょうぞう・おくのほそみちやたてはじめのくひ)
公式HPはこちらPDF①松尾芭蕉像:東京都荒川区南千住4-5(南千住駅西口駅前広場)
②奥の細道矢立初めの句碑:東京都荒川区南千住6-60-1
【指定・登録種別】奥の細道矢立初めの句碑:荒川区指定有形文化財
松尾芭蕉像は、平成27年3月、「奥の細道千住あらかわサミット」の開催を記念し、「矢立初めの地あらかわ」のシンボルとして、東京都荒川区の南千住駅西口駅前広場に建立しました。
令和5年5月より、在来植物によって日本の原風景を再現すること、多種多様な在来植物により季節の変化を感じること、地元住民に愛される日本らしい自然の緑とすること等を目的として、芭蕉像の足元にある植栽の植替えを行い、芭蕉が旅立った時代に思いを馳せる取り組みを行っています。
奥の細道矢立初めの句碑(荒川区指定有形文化財)は、千住大橋のたもとにある区内で最も広い地域の61ヶ町に氏子を持つ素盞雄(すさのお)神社の境内に、江戸時代文政3年(1820年)に千住に集う文人たちにより建立されました。
千住は、松尾芭蕉の「奥の細道」への旅立ちの地「矢立初めの地」として広く知られています。
「奥の細道」には、「千じゅと云所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝぐ」と記されています。この時松尾芭蕉が詠んだ「行春や鳥啼き魚の目は泪」がこの句碑に刻まれており、過ぎ行く春、見送る人々との別れを惜しむ心を表した句とされています。
足立区(東京都)
大橋公園(おおはしこうえん)
公式HPはこちら奥の細道の石碑と案内板
富嶽三十六景の案内板
東京23区の最北部に位置する足立区
足立区は寛永2年(1625)にできた千住宿だったところで、いまも残る江戸時代の商家や屋敷地が往時の歴史を感じさせます。
「奥の細道」旅立ちの地として知られるほか、芭蕉をしたう建部巣兆らの俳人たちが「千住連」、「大志連」などの会を作り、千住や西新井大師など区内各地に句碑や記念碑を建てました。俳人でもあった江戸琳派絵師の酒井抱一は巣兆を「友」と呼び交流し、千住で芭蕉を偲ぶ俳句を詠んでいます。巣兆は俳画を得意とし、抱一の門人、鈴木其一や、千住の琳派として知られる村越其栄や向栄も多くの俳画を送り出すなど、芭蕉以来の俳句は、文化や美術に広がりを見せました。
古くから千住船着き場があったところで、「奥の細道」に旅立つ松尾芭蕉が、深川から船で来て、その一歩を記したといわれる場所です。
松尾芭蕉の「奥の細道」に、「千住といふところで船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。≪行春や鳥啼魚の目は泪≫是を矢立の初めとして、行く道なおすすまず。人々は途中に立ならびて、後かげみゆるまではと、見送なるべし」と記されており、これを記念して奥の細道旅立ちの地として、矢立初めの句碑が建立されました。
また、千住を題材にした作品を残した葛飾北斎の富嶽三十六景の案内板もあります。
矢立初めの碑(やだてはじめのひ)
公式HPはこちら矢立初めの碑
「奥の細道」は江戸深川(現江東区)から奥州・北陸などを巡り、美濃国大垣(現岐阜県大垣市)にいたる約5か月におよぶ旅を題材にした作品で、元禄7(1694)年に成立しました。
旧暦の元禄2年3月27日(新暦では1689年5月16日)に深川から船で千住に赴いた松尾芭蕉は、多くの門人たちが見送る中、河合曽良をともなって旅立ちました。
「奥の細道」には千住で詠んだ矢立初めの句「行春や鳥啼魚の目は泪(ゆくはるやとりなきうおのめはなみだ)」が載せられています。この句は編さん時の句であり、実際の千住来訪時の作は「鮎の子のしら魚送る別哉(あゆのこのしらうおおくるわかれかな)」であったという研究があります。「行春や…」の「魚」、「鮎の子の…」の「しら魚」は千住の名産である「白魚」を詠みこんでいることでも知られています。
千住宿本陣跡(せんじゅじゅくほんじんあと)
公式HPはこちら千住宿本陣跡
【指定・登録種別】足立区登録史跡
千住宿本陣、秋葉市郎兵衛の屋敷跡地は、旧道三丁目の南西側角地にあります。そこにこの標柱が立っています。
宿泊施設には、本陣・脇本陣・平旅籠小屋(ひらはたごや)・食売旅籠屋(めしうりはたごや)等の区別がありました。それぞれ格式が異なり、宿泊客にも相違がみられ、中でも本陣は最も格式が高く、主に一万石以上の大名・公卿・高僧等、身分の高い人が宿泊していました。 千住宿の本陣は、初期は二軒ありました。享保19年(1734)の宿内伝馬図によると、三丁目市郎兵衛と四丁目嘉左衛門に本陣の肩書があります。しかし、四丁目分はいつしか消滅し、今日記録に残っているのは、市郎兵衛一軒だけです。
市郎兵衛の屋敷の規模は、間口9間半(約17m)、奥行38間(約69m)、361坪の広さで、屋敷内に建坪120坪、玄関付門構えの建物でした。
市郎兵衛は、千住・草加・越谷・粕壁(春日部)・杉戸の五宿本陣の総代を勤めたといわれています。
草加市(埼玉県)
国指定名勝 おくのほそ道の風景地 草加松原(くにしていめいしょう おくのほそみちのふうけいち そうかまつばら)
公式HPはこちら【指定・登録種別】国指定名勝
草加松原は、草加市の中心部を南北に流れる綾瀬川右岸沿いの遊歩道の東西に、約1.5キロメートルに及ぶ松並木です。日光街道第2の宿場だった旧草加宿の北側に位置し、一説では、天和3年(1683年)の綾瀬川開削に伴い街道が整備された際に松は植えられたと伝わり、江戸時代から日光街道の名所として知られてきました。
貞享5年(1688年)、松尾芭蕉は隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払い、翌年の元禄2年(1689年)3月27日(今の暦で5月16日)に『おくのほそ道』の旅に出ました。舟で千住へ至り、その後は徒歩で日光街道を北上。草加宿は『おくのほそ道』の作品中にも登場します。松並木は、その草加宿の北側にあって、街道を行く人々を見守ってきました。現在は、市道及び都市公園「草加松原公園」として整備され、訪れる人々の憩いの場となっています。
草加松原は、芭蕉の一行が通過した頃からその後の時代にかけて松が植え足され、街道の両側に今や長さ1.5キロメートルもの並木にまで成長を遂げました。
現在では、634本の松並木が植えられています。幹回りが約2メートルにも及ぶ複数の老樹を含め、川に沿って線状に延びる並木道の風景は壮観であり、今なお『おくのほそ道』の時代の雰囲気を伝える一連の風致景観の一つとして、評価され、平成26年(2014)3月には、国の名勝に指定されました。
鹿沼市(栃木県)
芭蕉の笠塚(ばしょうのかさづか)
芭蕉が鹿沼宿に到着したのは3月29日。江戸を出発して3日目のことでした。この日、芭蕉一行は間々田を出て、小山から「日光道中壬生通り」に入りました。「室八嶋」を見物し、壬生を越え「金売り吉次」の墓を参り、楡木から鹿沼に到達しています。
「入あひの かねもきこえす はるのくれ」
これは、曾良の俳諧書留にある、「おくのほそ道」の道中に鹿沼で詠まれたと思われる句の一つです。芭蕉の真筆といわれる色紙には、「田家にはるのくれをわぶ」と前書きがあります。また、「風羅坊」という号がありますが、これは芭蕉の別号です。
鹿沼に宿泊したことは、「おくのほそ道」には記述されていませんが、旅を共にした曾良が日記を残しています。
芭蕉が鹿沼宿のどこに宿泊したのかは諸説あり、よく分かっていません。
しかし、鹿沼の西の山寺と言われた「光太寺」には、次のような笠塚伝承が残っています。
「芭蕉が鹿沼宿を訪れた日は、前夜から雨が降り続いていました。江戸からの笠の雨漏りを危ぶんだ芭蕉は、この寺で新しい笠に替え、日光へ向かいました。時を経て、芭蕉の死を知った寺は、供養のため、残された笠を埋めて笠塚としました」
江戸の俳人 山崎北華は、1738年に「おくのほそ道」の足跡をたどる旅で、この笠塚を詣でました。紀行文「蝶の遊」の中で北華は、「我もこの影に居るなり花の笠」と詠んでいます。
「芭蕉居士」「嵐雪居士」の文字が刻んである大きな碑は後代のもので、その後方にある自然石の碑が塚を築いたころに建てられたものと言われています。
大田原市(栃木県)
雲巌寺(うんがんじ)
公式HPはこちら【指定・登録種別】大田原市指定文化財
雲巌寺は、大治年間(1126~31)、初叟元(しょそうげん)和尚により開かれ、その後中絶となるも、弘安6年(1283)、北条時宗を大檀那として、後嵯峨天皇の第三皇子高峰顕日(仏国国師、1242~1316)により臨済宗寺院として再建されました。日本四大道場の一つと言われましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの余波を受け、山門を残して焼失したと伝えられています。その後、妙徳禅師により復興され、江戸幕府3代将軍徳川家光から寺領150石を与えられました。現存する山門(大田原市指定文化財)は、江戸時代前期に再建されたものと考えられています。
松尾芭蕉は、元禄2年4月5日(1689年5月23日)黒羽藩の城代浄法寺桃雪(じょうぼうじとうせつ)の屋敷を出て、雲巌寺に参詣し、参禅の師仏頂和尚(常陸国鹿島の根本寺第21世住職)がかつて山居修行をした跡地を訪ねました。彼の高徳を礼賛する思いで芭蕉が詠んだ発句が〈木啄(きつつき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立〉で、同寺境内には句碑が立っています。
那須神社(なすじんじゃ)
公式HPはこちら【指定・登録種別】国重要文化財、国指定名勝
那須神社は、大田原市南金丸に鎮座しています。仁徳天皇の時代、下野国造奈良別命(しもつけのくにのみやつこならわけのみこと)が当地に黄金の玉を埋めて塚を築き、祠を建てたことに始まるとされ、平安期に坂上田村麻呂が八幡宮に改めたといいます。中世を通じて那須氏の崇敬厚く、戦国期以降は大関氏の氏神として崇められてきました。かつては八幡宮(金丸八幡宮)と称されていました。
松尾芭蕉は元禄2年4月13日(1689年5月31日)、鹿子畑翠桃(かのこはたすいとう)邸から津久井翅輪(しりん 庶民、俳人)に案内され、八幡宮に参詣しました。その際、芭蕉は地元の人から、那須与一が屋島の戦いで扇を射た時に心中祈念した神社は当社だとの話を聞いたようです。「八幡宮(那須神社境内)」は、国指定名勝「おくのほそ道の風景地」に含まれ、同社の本殿・楼門などは重要文化財に指定されています。
白河市(福島県)
境の明神(さかいのみょうじん)
公式HPはこちら【指定・登録種別】白河市指定史跡
境の明神は、白河市と栃木県那須町の県境に二社並立している神社の通称である。
白河から見ると、陸奥側(白河市)には玉津島明神(女神・衣通姫)、下野側(栃木県那須町)には住吉明神(男神・中筒男命)が祀られている(※)。
社殿については、会津領主蒲生氏により造営され、白河藩主本多能登守により改修されたという記録があるが、現存する社殿は火災による焼失のため、弘化元年(1844)に再建されたものである。
松尾芭蕉の奥の細道の紀行で、みちのくの第一歩を記した場所であり、芭蕉の句碑や関連の句碑・歌碑が建立されているとともに、大名家や商人から多くの燈籠が寄進されていることから、陸奥・下野の国境である境の明神として重要な場所であったことがうかがえる。
また、神社の向い側には、南部藩出身と伝わる一家が営んだ「南部屋」と称する茶屋跡や、松平定信の時代に建てられたという「従是北白川領」と刻まれた石柱がある。
境の明神は、明治期の道路拡張などの手が入って以降もなお、江戸時代における奥州街道沿いの国境の景観を色濃く残し、陸奥国の玄関口としての白河の近世史を語る上で、重要な史跡である。
※「玉津島明神」と「住吉明神」は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)・男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。このため、陸奥・下野とも自らの側に「玉津島明神」を祀り、反対側に「住吉明神」を祀るとしている。
白河関跡(しらかわのせきあと)
公式HPはこちら【指定・登録種別】国指定史跡
白河市中心部から南に約10kmの旗宿地区にあり、標高410mほどの独立丘陵全体が、史跡指定地である。栃木県境まで約3キロメートルの位置にあるこの地は、古くより関の森と呼ばれ、丘陵頂上部には白河神社(明治2年(1869)に改称)が存在している。
白河関の名は、文献では延暦18年(799)12月10日の太政官符(「河海抄」)に「白河・菊多剗守六十人」と記されており、少なくとも8世紀末には存在していたものと考えられる。また、承和2年(835)12月3日の太政官符(「類聚三代格」)に、「白河・菊多両剗」と見え、俘囚(律令国家に服属した蝦夷)の出入りと商人による官納物の買収を防ぐため、通行取締を長門国並みに行うよう命じており、白河関が人々や物資の出入りを監視する役割を担っていたことをうかがい知ることができる。
関の存続年代については、発掘調査の成果や文献資料から奈良~平安時代(8~9世紀頃)と考えられるが、10世紀の律令国家の衰退とともに、官関の機能は失われ場所も忘れられていったと推定されている。
機能の衰退・廃関前後に、能因法師の和歌「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関」(「後拾遺集」)などが詠まれ、以降白河関は都人の憧憬の地へと変化し、多くの歌人・俳人によって「歌枕」として文学の世界にその名が伝えられた。
江戸時代に入り、松尾芭蕉はみちのくの旅に出るにあたり、「白河の関越えんと、そぞろ神のものにつきて心を狂わせ」と記したように、白河の関はみちのくの入口の象徴であったが、当時は場所が不明であり、芭蕉一行も旗宿集落に至ったものの、はっきりと確認できないまま白河を後にしている。
関跡が断定されたのは江戸時代後期、白河藩主松平定信の時代で、定信は場所が不明となっていた白河関跡の調査を行い、絵画・記録や伝承などから考証し、寛政12年(1800)に現在地を白河関跡と断定し、「古関蹟碑」を建立した。
その後、昭和34年(1959)から5箇年にわたって発掘調査を実施した結果、空堀、土塁、柵列、門跡、竪穴住居跡、鍛冶工房跡、掘立柱建物跡などが確認され、縄文時代および奈良・平安時代、中世にわたる複合遺跡の存在が明らかとなった。
この調査により確認された遺構・遺物、遺跡周辺の地理的特徴、文献や絵画資料等の検討を総合して、現在地が白河関跡の条件にかなう点が多いことから、昭和41年(1966)に国史跡として指定された。
関山(せきさん)
満願寺銅鐘公式HPはこちら満願寺扁額公式HPはこちら【指定・登録種別】
銅鐘(満願寺):国認定重要美術品(工芸品)
木造扁額 聖武皇帝御願所 成就山満願寺:市指定重要文化財(工芸品)
白河市中心部から南東に位置する山で、茨城県・栃木県を南北に続く山塊を総称して八溝山地と称し、その最北縁に位置している。安山岩質凝灰岩からなり、標高619mの独立丘陵である。
市内中心部の各所から遠望でき、市を象徴する山の一つとなっている。
古くから山岳信仰が盛んで頂上には満願寺がある。天平勝宝年間(749~757)に聖武天皇の勅願により行基が開基し、一寸六分の聖観音を安置したとの伝承を持つ寺院で、江戸時代には子院も複数あったが明治に廃寺となり、昭和20年(1945)には山火事により伽藍や寺宝の一部が焼亡、その後再建されたものの往時の規模に復するには至らなかった。
松尾芭蕉と曽良はみちのくに入り、白河の旗宿に宿泊した翌日、関山に登り満願寺に参詣した。寛文4年(1664)10月に白河藩主本多忠平が寄進した銅鐘が現在も鐘楼に吊られている。
二本松市(福島県)
おくのほそ道の風景地~黒塚の岩屋~(おくのほそみちのふうけいち ~くろづかのいわや~)
【指定・登録種別】国指定名勝
黒塚の岩屋は、福島県二本松市安達ケ原に位置し、鬼女伝説に登場する黒塚、そして岩屋を有する観世寺から成る風光明媚な風致景観である。
古くは平兼盛が「みちのくの 安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか」という歌を詠み、この歌がもとになった鬼女伝説はその後、謡曲「黒塚」や歌舞伎「奥州安達原」に取り上げられ世に広まった。また、明治の俳人正岡子規も「涼しさや 聞けば昔は 鬼の家」という句を残している。
松尾芭蕉の『おくのほそ道』で黒塚の岩屋は「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋を一見し、福島に宿る」と記されているのみである。この時の様子は随行者曾良の『曾良旅日記』に詳しい。あさか山を後にした芭蕉一行は、二本松に入り、阿武隈川の対岸にあった黒塚を訪れる。そこで天台宗の別当から杉が植えられた塚が鬼を葬った場所だと説明を受ける。
現在も阿武隈川右岸には、大きな杉の木が植えられた黒塚があり、近くには伝説に登場する祐慶が開基したとされる観世寺が建つ。観世寺境内には鬼女が住んだとされる岩屋、そして祐慶の笈から出て光を照らしたとされる如意輪観音像を祀る観音堂がある。これらが、松尾芭蕉が訪れた全国の景勝地のうち、今なお往時の雰囲気と遺風を伝えるものとして高く評価されている。
なお、岩屋は、本来は阿武隈川河畔に露頭した花崗岩の自然石が作り出した景観であり、黒塚も古墳時代の円墳である。また、観世寺に伝わる鬼女が使用したという出刃包丁は、古墳時代の蕨手刀であり、福島県内最古の出土例として知られている。
亀谷観音堂の芭蕉句碑(かめやかんのんどうのばしょうくひ)
【指定・登録種別】市指定史跡
亀谷坂頂上にある観音堂境内に所在する。句碑は石段を登りつめた右側に、高さ約1.3m、最大幅約1.1m、厚さ約25cmの板状の自然石を用い建立されている。風化および一部破損のため少々判読しにくいが、春鏡塚と題し、「人も見ぬ 春や鏡の うらの梅」の句と建立者として蔵六坊虚来の名が刻まれている。裏面には「題春鏡塚碑陰」として、芭蕉の略歴と虚来が建立したことを記し、末尾に「安永丙申之春 藤宗英識」とあり、安永5年(1776)に建立されたことがわかり、市内にある歌碑・句碑の中では最も古い。藤宗英とは、当時二本松藩主の侍医であり文学者であった遠藤鹿山のことであるが、虚来については諸説あるものの正体は明らかでない。この句誌は、同年に虚来が刊行した『満須彌集』にも掲載されている。なお、当句は元禄5年(1692)夏に大阪の車庸が刊行した芭蕉と芭蕉門下の連句・発句撰集『己が光』(『をのが光』)に収められており、元禄5年元旦に作られたことがわかる。その意は、「鏡の裏の模様の梅は、ひっそりと春の訪れを告げている。人が見もしない春とでもいうべきであろう。」と解されている。
岩沼市(宮城県)
武隈の松(二木の松)(たけくまのまつ(ふたきのまつ))
公式HPはこちら【指定・登録種別】国指定名勝
武隈の松(二木の松)は、一本の根元から幹が二本に分かれたもので、伐られたあと、植え継ぎ植え継ぎして、背の高い分かれ松となっていた。それを見た芭蕉は、「今はまた昔と変わらず、千年の齢にふさわしい整った形をしていて素晴らしい様子であることよ」と感動している。
現在大河ドラマで話題の『源氏物語』にも二木の松が登場しています。
- 芭蕉が仰ぎ見て、「目覚る心地」を覚えた、根方が二木に分かれた樹形の老松(五代目)と、同様の樹形の松(七代目)が植えられていること。
- 古代より幾多の困難を経ても、なお歌枕の地であることを誇りとして、代々この地に植え継がれてきたこと。
- 芭蕉が訪れ、「桜より 松は二木を 三月越し」の句を詠んでいること。
仙台市(宮城県)
木の下および薬師堂(きのしたおよびやくしどう)
【指定・登録種別】国指定有形文化財
松尾芭蕉翁は、つゝじが岡の天神の御社(榴岡天満宮)を訪れた後、木の下の地にある薬師堂に立ち寄っている。この薬師堂は、古代の陸奥国分寺跡に伊達政宗が再興したものであるが、現在の薬師堂や仁王堂、また周辺の社寺林、金堂跡西側に立つイチョウ(推定樹齢390年)などは、松尾芭蕉翁が訪れた当時の面影を今も伝えている。
古代陸奥国分寺跡の範囲は、現在、国の史跡として指定されている。また、政宗が建立した建物のうち、薬師堂は国指定有形文化財、仁王門は宮城県指定有形文化財、他の江戸時代の鐘楼や準胝観音堂(じゅんていかんのんどう)は仙台市指定文化財となっている。準胝観音堂脇には、芭蕉が仙台城下で訪ねた大淀三千風(おおよどみちかぜ)の門弟によって供養碑(仙台市指定文化財)が建立されているほか、駿河の俳人山南官鼠(やまなみかんそ)による天明2年(1728年)の芭蕉句碑(仙台市指定文化財)も残っており、松尾芭蕉翁の来仙を踏まえた上での歌枕の名所として意識されていたことがわかる。当地は、芭蕉が訪れた当時の場所が限定されうる風致景観の良好な地である。
(引用元 宮城県文化財課)多賀城市(宮城県)
多賀城碑(たがじょうひ)
公式HPはこちら【指定・登録種別】国宝
多賀城南門跡のすぐそばに立つ古碑です。「おくのほそ道」の旅で碑と体面した芭蕉は、この碑だけは変わらぬ姿を留めているのを見て、「泪(なみだ)も落つるばかり也」と、感動の文章を『おくのほそ道』にしたためています。
現在、多賀城碑と呼ぶこの碑は、江戸時代初めに発見され、すぐに「壺碑」の名で呼ばれました。「壺碑」とは、平安時代の終わり頃から歌に詠みこまれた歌枕で、西行(さいぎょう)や源頼朝(みなもとのよりとも)などの和歌で有名です。こうした著名な歌枕の発見は大きな話題となり、当時の文人や学者の注目するところとなりました。徳川光圀(とくがわみつくに)は、『大日本史』編さんのために派遣した家臣の報告で、碑が苔むした状態であることを知り、仙台藩主伊達綱村(だてつなむら)に対し、碑を保護する覆屋(おおいや)の建設を勧めます。これを受けて間もなく覆屋が建てられ、今日に至るまで碑が守られています。
多賀城碑は芭蕉俳諧の根本理念である「不易流行」(詩的生命の永遠性と流動性は本来一つであるという考え)を思索したとされています。
多賀城と古代東北の解明にとって重要な記載があり、また、数少ない奈良時代の金石文として貴重であることに加え、奈良時代の国内外の情勢を色濃く反映するはかり知れない価値を有することから、令和6年8月27日に国宝に指定されました。
末の松山(すえのまつやま)
公式HPはこちら【指定・登録種別】国指定名勝
八幡(やわた)の宝国寺(ほうこくじ)裏手にある標高約8メートルの丘で、推定樹齢490年、樹高約19メートルの2本のクロマツが聳(そび)えています。元禄2年(1689)5月8日、「おくのほそ道」の旅で壺碑と対面した芭蕉は、野田の玉川、興井(おきのい)を経て末の松山を訪ねています。
「末の松山」は、『古今和歌集』に登場して以降、清原元輔をはじめとした歌人が和歌に読み込んだ愛を象徴する歌枕です。松の間に墓が点在する光景を見た芭蕉は「はねをかはし枝をつらぬる契(ちぎ)りの末も、終(ついに)はかくのごときと、悲しさも増りて」と『おくのほそ道』に記しており、愛の誓いの象徴となった歌枕「末の松山」-変わらぬ男女の契りも、結局は眼前に見るような墓の下に帰してしまうものであると、無常(むじょう)を感じています。
浮島(うきしま)
公式HPはこちら浮島は末の松山や壺碑と並ぶ有名な歌枕の一つです。
『新古今和歌集』には山口女王が恋人である大伴家持へ贈ったとされる歌が納められています。
また、浮島は陸奥国の歌枕として遠く京の都まで伝わっており、浮島で詠まれた歌が木札にたてられています。
松島町(宮城県)
雄島(おしま)
公式HPはこちら松島は『おくのほそ道』の旅の主要な目的地の一つです。特に、雄島は古くから多くの歌に詠まれた歌枕の地としても知られていました。人々は多島海から登る朝日に浄土を連想し、霊場として神聖視されていたと言われ、鎌倉時代には頼賢碑や供養塔(板碑)が林立する景観が作られました。また、伝説的な修行者である見仏上人を初めとする高僧らが修行の地としたことから、その徳にあやかり雄島に納骨する風習が明治はじめ頃まで続いたとされています。
このように「霊場」として知られていた松島を松尾芭蕉が訪れたのは元禄2年(1689)旧暦5月9日のことです。
芭蕉は雄島で瑞巌寺中興開山である雲居希膺の坐禅堂「把不住軒」を目にしています。この面前には現在も双子島をはじめとする島々が海に浮かぶ景色が広がり、日の出や月の出には浄土を思わせる光景を見ることができます。また、瑞巌寺100世洞水東初が妙覚庵(見仏堂)の跡地に建立した「松吟庵」についてもふれ、隠者の生活に心を寄せています。この建物は廃仏毀釈を免れましたが、大正時代に焼失してしまいました。
芭蕉は雄島を巡る中で、旅の目的の一つであった海に映る月を目にし、昼とはまた違った趣の眺めに心を奪われています。
『おくのほそ道』の発表以降、芭蕉を慕う多くの俳人達がその足跡をたどって訪れるようになり、芭蕉や曽良に関する句碑等が次々と建立されました。現在も多くの観光客が訪れる松島が「観光地」としての性格を強めていく要因の一つに、松尾芭蕉の存在があったのです。
登米市(宮城県)
芭蕉翁一宿之跡(ばしょうおういっしゅくのあと)
1689年(元禄2年)5月9日、芭蕉と曾良は、松島を出発し、栗原方面に行くつもりが思いもかけず石巻を経由して、5月11日晴れの日、戸伊摩(現登米(とよま)町)の町に入った。登米町内の宿屋に断られ、検断屋敷に一宿。翌5月12日、曇り空の戸伊摩を出発し、平泉を目指す。 残念ながら芭蕉は登米で句を詠まず、「おくのほそ道」の中では数行程度の記述にとどまるが、後世の人々が石碑を建てたり、有志の方々で5月11日(陽暦6月27日)に芭蕉の足跡を辿るツアーを開催したり、その功績を語り継ぐ活動を行っている。
書は俳人としても書家としても活躍した河東碧梧桐。六朝風の書体。 もともとは検断屋敷跡に建てられたものだが、屋敷跡が堤防の一角となってしまったため現在の場所に移された。碧梧桐門下の俳人菅原師竹や斎桜子が登米に住んでいたゆかりがあったため、石碑が出来た。
大崎市(宮城県)
国指定史跡「陸奥上街道」(くにしていしせき「むつかみかいどう」)
【指定・登録種別】国指定史跡
大崎市岩出山に位置し、「おくのほそ道」にも出てくる歴史の道です。
陸奥上街道は、奥州街道から一関で分岐し岩ケ崎、真坂・真山を通り天王寺追分で出羽街道にいたる道です。
旧道や、2か所に一里塚も残っており、天王寺一里塚は盛土が高く対をなしています。また、街道の両側約1.5㎞にわたり松並木が続いているところもあり、千本松長根と称して、古街道の面影が残っています。
国指定史跡「出羽仙台街道中山越」(くにしていしせき「でわせんだいかいどうなかやまごえ」)
【指定・登録種別】国指定史跡
大崎市鳴子に位置し,「おくのほそ道」にも出てくる歴史の道です。
出羽仙台街道中山越は,奥州街道吉岡宿から分かれて,中新田,岩出山,鳴子を経て出羽に至る峠越の道です。平泉を訪れた芭蕉が,次なる目的地の尾花沢に向かう際に通った道として知られています。
この街道は義経の時代から軍事上の要衝として知られ,渓谷に橋を架けることもなく旅人たちがたどったルートであり,「中山越」は最大の難所でした。当時はまだ人のあまり通らない道であったようで,関守に怪しまれながら,ようやくにして通ることができたと「おくのほそ道」に記されています。
栗原市(宮城県)
芭蕉衣掛の松(ばしょうころもがけのまつ)
芭蕉衣掛の松は、栗原市の一迫と栗駒の境にある志登ケ森の頂上にあります。
松そのものは害虫の影響で枯れてしまい、現在は切り株だけが残されています。
この松は、芭蕉が平泉から奥州上街道を岩出山方面へ向かう途中、志登ケ森の頂上に着いた際に、松の枝に衣を掛けて一休みしたと言われていることから「芭蕉衣掛の松」と呼ばれています。
この場所は昔、藩主の領内巡視の「お遠見場」で、北東に束稲山、北西に栗駒山、東に石越観音、西から南に花渕山、舟形山、南東に築館薬師山、涌谷箆岳山が望見できる、眺望絶景の地であったとされています。
秋葉神社「芭蕉の時雨塚」(あきばじんじゃ「ばしょうのしぐれづか」)
芭蕉の時雨塚は、栗原市一迫の秋葉神社にある芭蕉の句碑です。
時雨塚は、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅に敬意をいだいた地元の俳人午夕らが寛政12年に建立した碑です。秋葉神社参道の右側に建てられており、風化が進んでいるため刻字ははっきりと読み取ることはできませんが、芭蕉及び弟子の許六、それに地元の俳人午夕のそれぞれの句が刻まれています。
塩竈市(宮城県)
籬が島(まがきがしま)
公式HPはこちら【指定・登録種別】国指定名勝
籬が島は、塩竈湾の北岸近くに浮かぶ周囲約150mの島で、往昔鹽竈神社築造の際「曲木を巧みに用いた」籬島明神を祀る古祠が島名の由来となっております。また、「おくのほそ道の風景地」「日本遺産」指定の名勝になっており、古来名島として歌枕に使われ古今集、続後撰集などにはこの島を読み込んだ歌が数多く見られます。
「わがせこをみやこにやりて塩竈のまがきの島のまつぞ恋しき (古今和歌集 東歌)」
『おくのほそ道』には、塩竈の浦辺から、漁師たちが小舟を漕ぎつらねて捕った魚を分け合う声々とともに、夕月が照らし出すように幽かに望むことができたと記されています。
御釜神社(おかまじんじゃ)
【指定・登録種別】
藻塩焼神事:宮城県指定文化財
四口の神窯:塩竈市指定文化財
鹽竈神社の末社。鹽竈神社別宮と同じ祭神である鹽土老翁神(しおつちおぢのかみ)をお祀りしています。「塩竈」という地名の由来となった四口の「神釜」が安置され、鹽土老翁神が人々に製塩の方法を教えた釜と伝えられています。またこの神社では、毎年7月に全国でも稀な古代製塩を伝承する祭礼「藻塩焼神事」が行われています。
四口の「神釜」は世に異変があるときに水の色が変わると言われており「日本三奇」の一つでもあります。
『奥の細道』の旅に随伴した河合曾良の『曾良旅日記』によれば、元禄2年5月8日(1689年、陽暦6月24日)、仙台を発った芭蕉が午後2時頃塩竈に到着。食事の後、この御釜神社に立ち寄ったと記録されています。
一関市(岩手県)
陸奥上街道(むつかみかいどう)
【指定・登録種別】歴史の道百選
奥州街道の一関宿から分岐して、岩出山宿(現宮城県大崎市)までを結ぶ街道を陸奥上街道といいます。一関市内では迫(はさま)街道とも呼ばれています。松尾芭蕉に随行した河合曽良の『奥の細道曽良随行日記』には、元禄2年(1689)5月14日に一関を出発し、岩ヶ崎を経て岩出山に宿泊したことが書かれており、その際に通ったのが陸奥上街道と考えられています。街道沿いには、「迫街道一里塚」(一関市指定史跡)が残り、当時の様子をうかがうことができます。
宮城県側の岩出山周辺では、平成2年(1990)2月22日、国指定史跡に指定されています。岩手県側では、一関市真柴字蔵主沢から一関市萩荘字古田までの未舗装区間(約2.5km)が、令和元年10月30日、文化庁により歴史の道百選に選定されました。未舗装区間では、地域住民が結成した「川台一里塚史跡保存会」により環境整備が行われており、現在でも歩くことができます。ただし、選定区間の先は開発され道が無くなっていることから通り抜けることはできなくなっています。
また、選定されなかった範囲でも、奥州街道から分岐して陸奥上街道に入ると当時の道しるべが残されていたり、道は舗装されていますが当時の街道をたどることができたりして、風情を残しています。
迫街道一里塚(はさまかいどういちりづか)
【指定・登録種別】一関市指定史跡
この一里塚は、一関宿から岩出山宿(現宮城県大崎市)に向かう陸奥上街道(別名迫街道)に設置された一里塚の一つです。地元の地名から、苅又(かりまた)一里塚とも呼ばれています。陸奥上街道や一里塚は、「奥州仙台領国絵図」(正保年間〈1644~1647〉成立)、「磐井郡西岩井絵図」(元禄12年〈1699〉)にも記されています。築造年代は不明ですが、17世紀半ばには築造されたものと推測されます。
東側の塚(1号塚)は、直径10.06m×7.08m、高さ3.42mです。西側の塚(2号塚)は、直径10.58m×9.56m、高さ2.62mです。どちらの塚も部分的に変形していますが、往時の姿を彷彿させる景観を良く残しています。このことから、昭和54年(1979)4月1日に一関市指定史跡に指定されました。
昭和56年(1981)8月、地域住民により「川台一里塚史跡保存会」が結成され、一里塚や陸奥上街道の環境整備を実施しています。
一関市内において、二基一対でほぼ完形に近い姿で見られるのはこの一里塚だけです。当時の人々の旅や荷駄賃の目安ともなった一里塚は、江戸時代の交通史や生活文化を知ることのできる貴重な史跡です。
平泉町(岩手県)
金鶏山(きんけいざん)
【指定・登録種別】国指定名勝
金鶏山は、中尊寺と毛越寺の中間に位置する中心部にあり、標高 98.6mの円錐形の山です。
金鶏山は奥州藤原三代が築いた北の都である平泉の中心を表す象徴的な存在であり、都市造営の基準であった山です。山頂には経塚が営まれ、無量光院造営に際してもその背景としての役割を担う信仰の対象であると同時に、無量光院跡の本堂や建物跡の基準となっており、金鶏山山頂から本堂、東島の建物跡の軸線が東西軸線上に並んでいます。山頂の経塚からは、銅製経筒や陶器壷などが出土しています。
世界遺産の構成資産としては3つの浄土庭園造営の基準となった神聖な山として位置付けられています。
高館(たかだち)
高館から見る北上川とさくら山の眺望
【指定・登録種別】国指定名勝
高館は北上川西岸に面した丘陵で、南東側には平泉の政治を行っていた平泉館とされる柳之御所遺跡が隣接し、初代清衡の時代から要害の地として利用されていました。
兄頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた源義経は、三代秀衡の庇護のもとでこの高館に居館を与えられたとされており、丘の頂上には、仙台藩主四代伊達綱村が義経を偲んで建てた義経堂があり、義経公の木造像が安置されています。
平泉に到着した芭蕉一行は、まず源義経最期の地と伝えられている高館にのぼり、眼前に広がる風景を眺めつつ義経主従らを偲び、変わらずに形姿をとどめる「金鶏山」と、移ろいゆく「高館」からの風景との対比を「夏草や兵どもが夢の跡」の句に込めて詠みました。丘陵の山頂付近からは、北上川とさくら山の眺望が広がっています。
さくら山(さくらやま)
【指定・登録種別】国指定名勝
さくら山は、北上川を挟んだ北東部にあり、標高 595.7mの束稲山(たばしねやま)の山頂から西側の駒形峰の山頂付近を指します。
さくら山は、奥州藤原氏初代清衡の祖父にあたり、俘因の長として奥六郡を治めた安倍頼時の時代に、一万本もの桜を植えたと伝えられています。
さくら山の名称は「おくのほそ道」本体には記されていないものの、平安後期の歌人西行は「ききもせず たばしねやまのさくら花 よしののほかに かかるべしとは」とその美しさに感動し、吉野山以外にもこれほど見事な桜の山があったのだという驚きを歌にしており、この古歌を通じて桜花の名所として広く「さくら山」の名が普及しました。
松尾芭蕉は源義経の居館と伝わる高館から対岸の「さくら山」を望み、滅び去った者への懐旧の情と無常観を込めて落涙しました。
にかほ市(秋田県)
象潟(きさかた)
公式HPはこちら象潟。かつての島々は現在、水田の中に点在している。
【指定・登録種別】国指定天然記念物
象潟はかつて大小百前後の島々を浮べた潟(せき)湖(こ)で、背後には秀峰鳥海山が聳(そび)える名所でした。平安時代から和歌に詠まれ、能因法師や西行法師が訪れた歌枕の地として広く知られていました。芭蕉は『おくのほそ道』の日光の段に、同行の曽良が「松しま・象潟の眺(ながめ)共にせん事を悦び」と記しているように象潟は旅の目的地の一つとされています。
芭蕉と曽良が象潟に到着したのは元禄2年(1689)6月16日(陽暦8月1日)で、その日は雨でした。18日まで滞在し、雨の象潟を眺め、晴れたあとには舟で島々をめぐっています。芭蕉は『おくのほそ道』で、象潟の愁(うれ)いある風情を松島と比較して「俤(おもかげ)松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如(ごと)く、象潟はうらむがごとし」と表現し、さらに雨に濡れるネムの花に中国の悲劇の美女・西施(せいし)を思い浮かべて「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んでいます。
その象潟は、芭蕉が訪れた115年後の文化元年(1804)に地震で陸になってしまいました。現在、島々は水田の中に点在し、往時を偲ばせています。これらの島々は鳥海山の山体崩壊と地震を伝える自然記録として昭和9年(1997)に国の天然記念物に指定されているほか島の一部が「おくのほそ道の風景地 象潟及び汐越」として平成26年(2014)に国の名勝に指定されています。
蚶満寺(かんまんじ)
公式HPはこちら蚶満寺山門
地元の俳人たちが芭蕉70年忌を記念して
蚶満寺に建立した芭蕉句碑
【指定・登録種別】
蚶満寺山門:にかほ市有形文化財
芭蕉句碑:にかほ市指定史跡
蚶満寺は仁寿3年(853)に慈覚大師によって創建された古刹です。かつて蚶満寺は象潟の島の一つにあり、参道を歩いて行くこともできたし、舟で行くこともできました。6月16日に象潟に到着した芭蕉と曽良は、翌17日の朝食後、散策の道すがら蚶満寺に行き、さらに夕食後、舟で蚶満寺に行っています。
芭蕉は『おくのほそ道』に、舟で蚶満寺に行くと西行が歌に詠んだ桜があったこと、潟に神功皇后の御墓があると聞いて驚いたこと、寺の方丈に座して見た四方の風景を名文で綴っています。
象潟で芭蕉は発句を3句詠んでおり、そのうち2句を推敲して『おくのほそ道』に載せています。掲載されなかった句が「ゆふ晴や桜に涼む波の華」で、これは西行が詠んだ「きさかたの桜は波に埋もれて花の上漕ぐ海士(あま)の釣舟」を意識して詠んだ句です。芭蕉は蚶満寺で崇拝している西行が詠んだ桜を見て感動して詠んだのでしょう。
蚶満寺には、この西行桜の後継木をはじめ芭蕉が歩いた旧参道、舟つなぎ石、神功皇后ゆかりの旧跡が今も遺っています。そのほか境内には芭蕉を慕う地元の俳人たちが芭蕉70年忌を記念して宝暦13年(1763)に建立した芭蕉句碑があり、同句碑には「象潟の雨や西施がねぶの花」の初案の句が刻まれています。さらに最北の芭蕉像、西施碑などもあり、多くの人たちが訪れています。
欄干橋と熊野神社(らんかんばしとくまのじんじゃ)
公式HPはこちら今は欄干橋から象潟は見えないが、鳥海山が見える。
芭蕉と曽良が見た熊野神社の祭りは現在、
毎年5月の第3日曜日に開催されている。
欄干橋は象潟川にかかる橋で古くは「中の橋」と呼ばれていました。象潟が隆起する前はこの橋から眺める鳥海山と島々が絶景で、「見晴(みはらし)橋(ばし)」とも言われていました。芭蕉と曽良もこの橋からの眺めを気に入り、滞在中何度も足を運んでいます。
象潟川は潟湖から日本海に注ぐ唯一の川です。芭蕉は河口の浅瀬にたたずむ鶴を見かけ、「汐越や鶴はぎぬれて海涼し」の句を詠み、『おくのほそ道』に載せています。また、この橋のたもとに潟舟の発着場所があり、芭蕉と曽良もここから潟巡りに出発しています。
欄干橋のそばには熊野神社があります。芭蕉と曽良が象潟に着いた6月16日はちょうどこの熊野神社の宵祭りの日でした。宿泊を予定していた能登屋(のとや)が女客でふさがっていたため、二人は急遽能登屋の向かいの宿に宿泊しています。翌日、芭蕉と曽良は蚶満寺からの帰途、偶然熊野神社の渡御(とぎょ)行列に出会い、熊野神社に足を運んで躍(おどり)などを見ています。待望の象潟が祭であったことが印象的だったのか『おくのほそ道』には曽良の「象潟や料理何くふ神祭」という句を収載しています。この熊野神社の祭典は、今も毎年5月の第3日曜日に行われており、神輿渡御が町内を巡行します。
遊佐町(山形県)
おくのほそ道の風景地 三崎(大師崎)(おくのほそみちのふうけいち みさき(だいしざき))
公式HPはこちら不動崎より大師崎
三崎(大師崎)
大師堂と旧道
【指定・登録種別】国指定名勝
三崎(大師崎)は、山形県と秋田県にまたがり西側は断崖となり日本海に臨む風景地です。
約3000年前に鳥海山(ちょうかいざん)の噴火活動により猿(さる)穴(あな)溶岩が西に流れ下り、海に至ったもので、このような成層火山のすそ野が海へ至るような地形は、火山国日本にあっても希少であり、三崎は、鳥海山と日本海とが出会った場所とも言えます。
元禄2(1869)年6月16日、芭蕉と曾良は旅の目的地の一つである象潟(きさかた)(現秋田県にかほ市)を目指して吹(ふく)浦(ら)(現山形県遊佐(ゆざ)町)を発ち、雨の中、難所の三崎を越えています。曾良随行日記には「吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降リ出ル。一リ、女(め)鹿(が)。是(これ)ヨリ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云」とあります。
三崎の名称は観音崎(かんのんざき)、大師崎(だいしざき)、不動崎(ふどうざき)の三つから成ることに由来し、約1200年前に慈覚大師が開削したとされる旧道が南北に通っています。
旧道沿いには大師堂(だいしどう)、五輪の塔、一里塚跡などがあり、人々の往来ですり減った旧道の石や岩がその古さをものがたり、今も残る地獄(じごく)谷(だに)、駒泣(こまな)かせなどの地名は大変な難所であったことを伝えます。
また、三崎は、かつて旅人を食べる鬼(手長足長)がいて、そこに3本足のカラスが現れ、「うや」「むや」と鳴いて鬼の存在を旅人に知らせたという「有耶無耶(うやむや)の関」の伝説があります。芭蕉は『おくのほそ道』に「南に鳥海、天をささえ、其影うつりて江にあり、西はむやむやの関、路をかぎり」と「有耶無耶(うやむや)の関」について記しています。
昭和33年には三崎山のタブ林が「吹浦三崎山のタブ林」として山形県天然記念物に、同年三崎山の古道やその周辺が「三崎山旧街道」として秋田県史跡に指定されました。
今もなお鬱蒼としたタブ林に包まれる旧街道は、芭蕉らが訪ねた往時の面影を彷彿させ、優れた風景を今に伝えるものであり、平成27年3月10日に国名勝「おくのほそ道の風景地」に追加指定されました。
周辺一帯は三崎公園として整備され、海岸の奇岩怪石や飛島、日本海に沈む夕日などの眺望を楽しむことができる観光名所でもあります。
鶴岡市(山形県)
羽黒山南谷(はぐろさんみなみだに)
【指定・登録種別】山形県指定史跡、全国かおり風景100選
やまがたの旅
約300年前羽黒山第50代別当天宥法印が構造下別当寺の別院跡である。
今は一部の礎石を残すだけであるが院をめぐって池を配した庭園は周囲の自然を巧みに取り入れて名園の面影を今に伝えている。
県指定史跡。全国かおり風景100選に選定されている。
最上町(山形県)
出羽仙台街道中山越(でわせんだいかいどうなかやまごえ)
【指定・登録種別】国指定史跡
この最上町は近世においては「小国郷」と総称され、その幹線道は東方の仙台領と西方の羽州街道とを結ぶ脇街道で、東は仙台、その先遠くは水戸や江戸などまでの太平洋岸地域と西の日本海側の各地とを結ぶ近世道の一部でした。この街道は公私の旅人の通行や物資輸送、通信等に利用され、時代が下るにつれて交通量は増加し、社会的にも大きな役割を果たしていました。宮城県鳴子町(現大崎市)が山形県境までの近世道の一部を整備した後、最上町も国・県の補助を受け、昭和56年度、同59~61年度の4か年に亘りその延伸道の保存整備を実施しています。説明板や標柱等の新設、県境部の河川には最上・鳴子両町共同で木橋も架設され、その後平成2年2月22日には保存整備した県境部から国道47号までの約30mという短い区間ではありますが、国史跡に指定されています。元禄2年(1689)に俳聖松尾芭蕉が門人の曾良と共に辿った「おくのほそ道」の一部でもある本史跡は、近世から近代の数多の人々の足跡が刻まれた正に歴史舞台そのものです。最上町では全国に誇れる文化遺産として本史跡の恒久的保護に努めると共に、近隣市町村等と連携を図りながらの観光客誘致に取り組んでまいります。
旧有路家住宅(通称「封人の家」)(きゅうありじけじゅうたく(つうしょう「ほうじんのいえ」))
公式HPはこちら【指定・登録種別】重要文化財
旧有路家住宅は、昭和44年12月18日に重要文化財に指定された最上町所有の建造物です。建築年代は不詳ですが、山形県東北部に江戸時代から見られた茅葺き寄棟造り、広間型民家の好例です。昭和46~48年度に解体復元工事が実施された後、江戸時代の建築様式で保存され、現在も一般公開されています。本建造物は、江戸時代には新庄藩上小国郷堺田村の庄屋、有路家の住宅で、屋内は床の間、いり(奥)の座敷などの5部屋と内庭、うちまや(内厩)などから構成されています。住宅構造には、江戸期に庄屋役と問屋役を兼ね、街道筋の旅宿にもなり、熱心な馬産家だった有路家の歴史的性格が強く反映されています。本住宅は松尾芭蕉が「おくのほそ道」に記した、堺田のいわゆる「封人の家」とみなされてもいます。元禄2年(1689)5月15日、芭蕉は門人の曾良を伴って仙台領尿前の関を越えて出羽の国へと旅路を急ぎますが、そこで思いもよらぬ大雨に遭い、いたしかたなく2泊3日この家に逗留したと伝えられており、その時の印象を芭蕉は『蚤虱馬の尿する枕もと』の句で表現。17日には主人から案内の若者をつけてもらい、尾花沢の鈴木清風を訪ねるべく山刀伐峠の難所を越えることとなります。
尾花沢市(山形県)
山刀伐峠(なたぎりとうげ)
公式HPはこちら「あるじのいふにたがはず、高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて、夜行くがごとし・・・」(おくのほそ道より)
元禄2年5月17日(旧暦)、芭蕉と曾良は反脇指を携えた究竟の若者を伴い、並々ならぬ覚悟で山刀伐峠を越え、尾花沢に入りました。芭蕉たちを待つ俳友鈴木清風宅には、昼過ぎに到着しています。「おくのほそ道」山刀伐峠越えの一節は、作品全体の大きな山場となっているといわれています。
「山刀伐二十七曲り」の峠道は、現在遊歩道(歴史の道)として整備されており、尾花沢側と最上町側の双方から、頂上まで30分ほどで登ることができます。峠頂上は標高470メートル。「子持杉」と呼ばれる大杉と「子宝地蔵尊」があり、少し進むと「奥の細道山刀伐峠顕彰碑」(1967年建立)が見えてきます。碑文は俳人加藤楸邨筆の「高山森々として・・・。」の一節です。
また、遊歩道と平行して車道が整備され、頂上に駐車場、トイレと四阿があります。
ブナやナラなどの落葉樹の下を「木の下闇茂り合ひて」「篠の中踏み分け」の気分を味わいながら散歩するのはいかがでしょうか。
弘誓山養泉寺(ぐぜいざんようせんじ)
公式HPはこちら尾花沢は「芭蕉十泊のまち」で、全旅程156日間の中で連続滞在期間が最も長いまちです。芭蕉と曾良は、尾花沢滞在10泊のうち、清風宅には3泊、残り7泊は近くの養泉寺を宿としました。
弘誓山養泉寺(天台宗)は、寺伝によれば慈覚大師の開基。上野に寛永寺が開かれてからは、その直末の寺院となりました。もとは坂下にありましたが、元和元年(1615)に、現在地に移ったとされています。元禄元年(1688)に大改修が行われ、翌年芭蕉が訪れたときは畳も新しく、旅の疲れを癒やすには絶好の場所だったといえるでしょう。
芭蕉が尾花沢に着いたのは旧暦5月17日(陽暦7月3日)。この時期は、商家である清風宅は何かと慌ただしく、芭蕉たちがゆっくりと身体を休めることができないだろうと、清風は考えました。そこで、前年に大改修を終えたばかりの養泉寺を、もう一つの宿として手配し、接待役として俳句に通じた村川素英を頼んで、様々なおもてなしをしました。
残念ながら、養泉寺は明治28年(1895)の大火の飛火で類焼し、本堂が再建されたため、芭蕉来訪時の面影は余り残っていません。
弘誓山養泉寺「凉し塚」(ぐぜいざんようせんじ すずしづか)
公式HPはこちら芭蕉は、尾花沢では二歌仙「すゞしさを」の巻と「おきふしの」の巻をまいています。「すゞしさを」の歌仙の発句は「すゞしさを我やどにしてねまる也」(芭蕉)です。清風へのあいさつと、もてなしへの感謝の気持ちがこめられています。この句は、養泉寺の仁王門を入って右手の鞘堂の中の句碑に刻まれています。句にちなんで地元の人は「すゞみ塚」「凉し塚」と呼んでいます。
宝暦12年(1762)の建立で、芭蕉没後約70年を経ています。建立者は尾花沢の俳人である路水と素州です。句碑は丸みをおびた自然石(高さ92cm、幅50cm)で、側面から背面にかけ、漢文で芭蕉の事蹟が刻まれています。
天童市(山形県)
芭蕉の句碑(ばしょうのくひ)
公式HPはこちら【指定・登録種別】日本遺産「山寺と紅花」構成文化財
山形では江戸時代に花弁から染料や口紅の元になる色素がとれる最上紅花の栽培が盛んでした。このため、紅花は山形県の県花に指定されています。元禄2年(1689年)、新暦の7月13日に山寺参詣の途中、天童市石倉周辺の紅花畑を見て「まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花」を詠んだと言われています。句意は、「いずれ女性の唇をいろどる紅となる紅花、そのかたちも、女性が化粧に使うまゆはきのかたちを彷彿とさせる」というものです。平成9年7月13日、松尾芭蕉の奥の細道の旅を記念し、郷土の文化の誇りを末永く伝えるため、山寺への旧道の分岐点にまゆはきの句碑を建立しました。
また、句碑のある場所からほど近い上貫津の紅花畑にて、芭蕉が天童の紅花の句を詠んだことにちなみ、毎年7月上旬頃に「おくのほそ道天童紅花まつり」が開催されています。
大石田町(山形県)
高野一栄邸跡(たかのいちえいていあと)
松尾芭蕉が大石田を訪れた元禄期は、最上川の舟運が活況を呈し、大石田河岸が全盛を迎えた時期である。大石田の俳人・高野一栄(平右衛門)は船問屋を営んでおり、大石田河岸を支える有力者の一人でもあった。山寺立石寺を詣でた後、芭蕉と曾良は大石田を訪れており(元禄二年五月二十八日・1689年7月14日)、その際三泊の宿としたのが高野一栄邸である。
翌日から芭蕉、曾良、一栄に、やはり土地の俳人である髙桑川水(たかくわせんすい)を交えて俳諧の興行が始まった。この時の芭蕉の発句が「さみだれをあつめてすずしもがみ川」である。梅雨の蒸し暑いさ中、満々と水を湛えた最上川から吹く川風が、旅で疲れ火照った身体を涼やかに通っていく。芭蕉と最上川との出会いは、一栄邸からの「涼しい」眺めであった。
この発句に対し一栄は「岸にほたるを繋ぐ舟杭」と脇句を続けている。舟運に携わる自分自身を船を舫(もや)って留めておく舟杭になぞらえ、芭蕉の滞在を喜びいつまでも繋ぎ止めておきたいという心を詠んだものか。「新古二道に踏み迷うといへども、道しるべする人しなければ(『おくのほそ道』)」という芭蕉の思いもあり、蕉風俳諧の指導を伴った歌仙興行であったと考えられる。この時の体験は「このたびの風流ここに至れり(『おくのほそ道』)と結ばれているように、芭蕉にとっても実りあるものとなった。
二日かけて満尾した四吟歌仙は、芭蕉自らの手によって清書されることとなる。現在も大石田に残るこの芭蕉真蹟歌仙の末尾には「最上川のほとり一栄子宅におゐて興行 芭蕉庵桃青 元禄二年仲夏末」と記されている。建物は長い年月の間に失われてしまったが、一栄邸跡には歌仙「さみだれを」を刻んだ連句碑が建てられている。
黒瀧山向川寺(こくりゅうさんこうせんじ)
永和三年(1377)創建と伝わる曹洞宗寺院。曹洞宗大本山総持寺二世峩山禅師の五哲の一人・大徹宗令による開山で、総持寺の直末寺である。東北地方における中本山として山形県内をはじめ秋田・宮城両県域まで勢力が及び、往時は末寺28ヶ寺、孫寺は百ヶ寺を数えたという。
曾良の随行日記には「発一巡終テ、翁両人誘テ黒滝へ被参詣。―中略―、道々俳有」との記載があり、大石田滞在中芭蕉が向川寺に参詣したことを示している。元禄二年五月二十九日(1689年7月15日)、この日始まった俳諧の興行は、「新古二道に踏み迷ふ」土地の俳人高野一栄と髙桑川水を交えた歌仙形式であった。この二人に対して芭蕉は自ら「道しるべする人」として指導しながらの俳諧であったと推測される。座が一巡したところで芭蕉は一栄と川水を誘い、黒滝(向川寺)へと連れ立って行く。往復の道中でも俳諧は続いており、この時の体験が歌仙には詠みこまれている。
向川寺には開山の大撤宗令お手植えと伝わる大カツラの大イチョウがあり、芭蕉一行が参詣した折りはすでに樹齢300年を越える巨木であっただろう。そこからさらに300年以上を経てなお健在の両巨木は、現在も鬱蒼とした木陰を作りながら往時の雰囲気を伝えている。
石水山西光寺(せきすいさんさいこうじ)
応永年中(1,400年頃)創建と伝わる時宗寺院。西光寺境内には松尾芭蕉が大石田で巻いた「五月雨歌仙」の発句「さみたれをあつめてすゝしもかみ川」の真蹟を模刻した句碑が建てられている。
この句碑を建立したのは土屋作兵衛という人物であった。土屋家は尾花沢の延沢銀山を奉行した土屋作之丞を祖とし、代々大石田河岸において豪農・豪商として活躍した。宝暦・天明の飢饉の際は私財を投じて施米を行ったことが認められ、幕府から苗字・帯刀を許されている。
土屋作兵衛は俳号を只狂(しきょう)といい、江戸中期の大石田を代表する蕉風獅子門の俳人でもあった。美濃派の宗匠らと深い交流を持ち、俳諧結社「暁花園社中」を主宰するなど大石田俳諧の中興の祖といえる。諸国の俳人から発句を募った只狂撰の俳諧集『もがみ川集』を世に出したほか、当時大石田外に流出していた芭蕉真蹟『五月雨歌仙』を買い戻すなど、後世に与えた影響は大きい。この『五月雨歌仙』入手を記念して明和初年頃に建立したのが冒頭の句碑である。原碑は風化が著しく鞘堂に収められ、もとの場所には代碑が建立されており、代碑に向かって右隣に建てられた「暁花園碑」の裏面には、只狂晩年の句「夜着重し櫻や咲ん雨の音」が刻まれている。
新庄市(山形県)
芭蕉乗船の地(ばしょうじょうせんのち)
公式HPはこちら元禄2年(1689年)6月1日大石田を出た芭蕉と曾良は、猿羽根山峠を越えて、尾花沢で行われた句会で知り合った新庄の俳人渋谷甚兵衛(俳号:風流)の家に二泊しました。二日目、風流の兄であり、新庄城下きっての豪商であった盛信の家に招かれ地元の俳人と歌仙一巻を巻きました。芭蕉ゆかりの句として「水の奥 氷室尋ぬる 柳哉」、「風の香も 南に近し 最上川」を残しています。
また、6月3日に本合海より乗船し最上川を下る途中、五月雨で増水している最上川の急流を体験し、「五月雨を 集めて涼し 最上川」の句を「五月雨を 集めて早し 最上川」の句に改作したと言われています。本合海は、最上川の川湊であり交通の要衝として栄えました。奥の細道紀行300年を記念し、江戸時代から続く新庄の窯元・弥瓶窯(やへいがま)で焼いた新庄東山焼の芭蕉と曾良の胸像が平成元年に建立されました。
出雲崎町(新潟県)
芭蕉園(ばしょうえん)
公式HPはこちら元禄2年(1689)、芭蕉は奥の細道の旅の杖を出雲崎にとどめ「荒海や佐渡によこたふ天河」の名吟を残しました。昭和29年(1954)7月に芭蕉真筆の「銀河の序」全文を拡大彫刻した句碑と、平成元年(1989)奥の細道300年を記念して建立された芭蕉像が建つ庭園です。
また、園内には俳句ポストが設置され、年1回選句を行い、句集を作成しております。
実際に芭蕉が一泊した大崎屋跡は向かいにあり、ここは良寛生家橘屋と権力争いをした廻船問屋敦賀屋の跡地であります。
糸魚川市(新潟県)
名勝 おくのほそ道の風景地 親しらず(めいしょう おくのほそみちのふうけいち おやしらず)
YouTube【指定・登録種別】国指定名勝
「親不知」は飛騨山脈の北端が日本海に没する新潟県糸魚川市の大字青海(勝山)から大字市振に至る15㎞に及ぶ連続した断崖で、そのほぼ中央に位置する歌・外波集落以西を「親不知」、以東を「子不知」とも呼ぶ。
「波よけ観音」などといった石仏、「髭剃岩」や「長走り」などといった呼び名、さまざまな紀行文、幾多の遭難悲話などから「親不知」が古来より交通の難所であったことがわかる。松尾芭蕉は『奥の細道』で「今日は親しらず・子しらず・犬戻り・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れはべれば」として、市振の桔梗屋で「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」と名句を遺している。
今日では断崖直下の砂浜は浸食され、明治以降に開削された道路や鉄道が断崖を縫うように建設されているものの、山脈が約15㎞に渡って急崖となって日本海に没する様は雄大で、荒波の打ち寄せる冬季は、まさに絶景と言うほかない。なお、「親不知」は「糸魚川ユネスコ世界ジオパーク」において、当地の大地の成り立ちを説明する上で欠かせない主要なジオサイトでもあり、急崖と日本海そして幾世代にも渡る道路は文化的景観を織りなす。なかでも、風波川と不動谷川の間1.4㎞は、親不知を代表する断崖絶壁で「天嶮」と称され、芭蕉をはじめ数多の文人が北陸道最大の難所とした風景を今にとどめている。
親不知のなかでも最も急峻な岸壁が連続し、最近の構築物が少なく江戸期の風景をとどめる約700mの断崖と海岸が、草加松原(埼玉県草加市)やガンマンガ淵(栃木県日光市、慈雲寺境内)など12か所とともに平成26年3月18日、国名勝「おくのほそ道風景地 親しらず」として指定された。
朝日町(富山県)
芭蕉句碑(ばしょうくひ)
公式HPはこちら【指定・登録種別】朝日町指定史跡
松尾芭蕉は俳諧紀行文「奥の細道」にある「わせの香や分入右ハありそ海」の句を刻んだ石碑です。彫りは深く、保存状態は良いです。碑文の原本は、越後高田の俳人白梅甫によって書かれました。この句を彫った石碑は、富山県内に10基以上設置されていますが、建立年代の明確なもので最も古いのは、滑川市徳城寺境内の明和元年(1764年)のもので、朝日町元屋敷に所在のこの芭蕉句碑は、それに次いで古いものです。
句碑の建立年代は、はっきりとしたことはわかっていませんが、天保11年(1840年)発行の『五ケ山大牧入湯道之記』という道中記に、「本屋敷村入口に翁塚有」と前書きがあり、この句が記載されていることから、これ以前に建てられたことがわかります。
この石碑の建つ場所は、笹川右岸の、やや傾斜した台地の一角で、北陸街道に面した立地です。現在は海岸との間に鉄道が敷設されたため、やや海の眺望は悪くなっておりますが、芭蕉が通った時代には遮るものもなく、はるか遠くまで海を見渡すことができたことでしょう。
滑川市(富山県)
句碑(有磯塚)(くひ(ありそづか))
【指定・登録種別】滑川市指定文化財
富山県下にある「早稲の香や わけ入右は 有磯海」の句碑の中で、建立年がはっきりしていて最も古いのが、滑川市にある有磯塚です。
芭蕉の七〇回忌の翌年にあたる明和元年(1764)10月12日に、川瀬知(ち)十(じゅう)や史(し)耕(こう)・珂(か)城(じょう)など、当時の滑川を代表する俳人たちによって建立されました。
そのいきさつについては知十の「俳諧わせのみち」の中で、
つらつら観(かんず)るに、珂城が早世は我輩のおこたりをいましむる俳門のいさめと意(こころ)定(さだめ)て、只驚きにおどろき、幸に翁の七十の遠忌に当れば、有磯の砂を手してさらへ、荒波のかゝれる石を社中と共にかき荷(にな)ひて、此神明山徳城禅室に碑をたつ。名は何ぞ外(ほか)を求(もとめ)ん。わせの香やわけ入右はありそ海と碑面にものして、有磯塚と云なるべし。これより香華(こうげ)をおこたらず、俳徒も此石と共にひさしく、春は浦風の桜に通はざる先にと手(た)向(むけ)、子規(ほととぎす)の暁(あかつき)は裳を汐にひたし、早稲の香吹くはもとより
と記され、芭蕉への深い敬愛の念と俳諧に寄せる熱い想いが語られています。
芭蕉句碑(ばしょうくひ)
【指定・登録種別】櫟原神社本殿:国登録有形文化財
櫟(いち)原(はら)神社(滑川市神明町)境内の池畔にたたずむ石碑が芭蕉句碑です。
そこには、
「しはらくは 花のうへなる 月夜かな」
と刻まれています。これは安政二年(1855)初冬(10月)に狐松庵如青・迎月亭東邱・閑時庵呉橋・時雨斎六窓の四名が発起人となり、金沢の俳人・卓丈が揮毫し、滑川の石工・久兵衛によって建てられました。
この年の10月から翌年2月の間に、呉橋を中心に七、八人のメンバーで俳諧発句会を行っています。この句碑の発起人である四名が発句会に参加していることから、句碑建立はこの集まりのなかから生み出されたと思われます。俳諧をたしなみ、精進を重ねる者たちの俳聖・松尾芭蕉を敬慕する思いが表れています。
高岡市(富山県)
有磯海(ありそうみ)
公式HPはこちら【指定・登録種別】国指定名勝
有磯海は富山湾全体を広く指す「万葉集」に由来する歌枕です。
越中は米どころであり、一面に早稲(わせ)が広がり、右側に歌枕の有磯海を見て感動する芭蕉の姿が浮かびます。
―松尾芭蕉『おくのほそ道』―
黒部四十八が瀬とかや、数知らぬ川を渡りて、那古といふ浦に出づ。担籠の藤波は、春ならずとも、初秋のあはれ訪ふべきものをと、人に尋ぬれば、「これより五里磯伝ひして、向かうの山陰に入り、蜑(あま)の苫葺(とまぶ)きかすかなれば、蘆(あし)の一夜の宿貸すものあるまじ」と、いひおどされて、加賀の国に入る。
早稲の香や 分け入る右は 有磯海(わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)
越後から親不知(おやしらず)を越えて越中に入った芭蕉は、黒部川扇状地を渡り、滑川(なめりかわ)に一泊します。那古(奈呉:射水市)に出て、担籠(田子:氷見市)の藤波は春でないので見られないが、初秋の風情も一見の価値があるだろうと人に道を尋ねたところ、「ここから海沿いに五里ほど歩いて、向こうの山陰に入ったところだが、漁夫の粗末な家もまばらなところで、泊めてくれる人もあるまい」とおどかされたので、氷見に行くことを断念し、万葉の歌枕である二上山などを遠望し、高岡で一泊しました。芭蕉は、長旅の疲労と猛暑から体調を崩していたこともあり、翌朝、倶利伽羅峠(くりからとうげ)をこえて金沢へ急ぎました。
越中は奈良時代、「万葉集」の代表的歌人である大伴家持(おおとものやかもち)が国守として赴任し、自然の美しさなどを情感豊かに詠んでいます。「奈呉の浦」や芭蕉が訪れようとした「田子の浦の藤波」も万葉の歌枕です。
芭蕉の旅の目的のひとつは歌人が詠んだ名所・歌枕を巡るものだったことから、芭蕉は有磯海を右に見る道を、加賀の国へと歩みながら、大伴家持の歌に思いを巡らせたのではないでしょうか。
写真は「有磯海」こと富山湾に面した雨晴海岸です。万葉集では「渋谿(しぶたに)」と呼ばれました。天気の良い日には、富山湾越しに3,000メートル級の立山連峰を望む屈指の眺望が広がり、「万葉集」に詠まれた当時の情景を見ることができます。
大伴家持や芭蕉を魅了し、『万葉集』や『おくのほそ道』で詠まれた風景をぜひ勧賞しにいらしてください。
金沢市(石川県)
願念寺(がんねんじ)
公式HPはこちら願念寺は、門前に松尾芭蕉の「塚もうごけ我が泣く声は秋の風」の句碑があり、この句は芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中、交流のあった金沢俳壇の小杉一笑(こすぎいっしょう)の死を知って詠んだ句です。小杉家の菩提寺でもあります。一笑を記念する「一笑塚」が境内に建っています。
芭蕉が訪れた当時、願念寺では一笑の追善会(ついぜんえ)が営まれ、芭蕉、河合曾良をはじめ句空(くくう)・秋の坊・北枝(ほくし)・牧童(ぼくどう)・小春(しょうしゅん)など金沢の俳人たちが集まり、墓に詣で追善の句をなしました。芭蕉は「塚もうごけ我が泣く声は秋の風」と詠じ、深い悲しみを表しました。
小坂神社(こさかじんじゃ)
公式HPはこちら小坂神社は、中世期にはたびたび兵火を受けて焼失しましたが、寛永13年(1636)、加賀藩前田家三代・利常(としつね)により現地において再興しました。以来、金沢北郊鎮護(ほっこうちんご)の大社として藩主はもとより庶民から信仰を集めました。
『おくのほそ道』において、芭蕉が小坂神社に参詣(さんけい)、神社北側にあった谷あいで船遊びをし、句会まで開いたと伝えられており、石段中程に「芭蕉翁巡錫地(じゅんしゃくち)」と刻まれた芭蕉の記念碑が建っています。
小松市(石川県)
名勝おくのほそ道の風景地 那谷寺境内(奇石)(めいしょうおくのほそみちのふうけいち なたでらけいだい(きせき))
公式HPはこちら【指定・登録種別】国指定名勝
高野山真言宗の寺院である那谷寺は、養老元年(717年)、白山を開いた泰澄が境内の岩窟内に千手観音像を安置したのが始まりとされます。その後、寛和年間(985~987年)には、西国三十三所の巡礼を終えた花山法皇が当地を訪れ、三十三所の一番霊所である那智山の「那」と、三十三番霊所である谷汲山の「谷」をとって「那谷寺」と名付けたと伝えられています。
元禄2年(1689年)8月、松尾芭蕉(1644~1694)が当地を訪れ、『おくのほそ道』で次のとおりに那谷寺について触れています。
山中の温泉に行くほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付け給ふと也。那智・谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植えならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。
那谷寺の境内には、そそりたつ奇石に洞穴が開口している場所があり、石が織りなす自然の造形美が、周囲の木々や本堂の外観と組み合わさって、四季折々に優れた風致景観を形成しています。
芭蕉は、秋風を感じつつ、この風光明媚な奇石の景色を見て、「石山の石より白し秋の風」と詠みました。
南越前町(福井県)
湯尾峠(ゆのおとうげ)
公式HPはこちら【指定・登録種別】国指定名勝
湯尾峠は、旧北陸道の要地として古来より栄えたところです。天正6(1578)年、北ノ庄城主であった柴田勝家によって、それまでの峠の西側に整備されました。
標高約200メートル、湯尾の集落との標高差はおよそ100メートルあります。頂上の平場には孫嫡子神社(平成期に再建)と4軒あった茶屋の跡が残っています。江戸時代、孫嫡子神社は疱瘡(天然痘)除けにご利益があるとされ、茶屋ではお守りの札が配られていました。この4軒の茶屋やお守りのことは当時の文献にも記載されています。
明治時代に入ると湯尾峠の周辺の状況は大きく変化しました。明治25(1892)年に三ヶ所山の麓を迂回する新道が造られ、明治29(1896)年には鉄道が開通します。峠を経由していた人や物資の流れが変化し、茶屋を営んでいた人々はそのころに山を下りたといいます。明治末期には孫嫡子神社や八幡宮等の合計4社が併合され、湯尾の集落の外れに湯尾神社が建てられました。
湯尾峠には、『おくのほそ道』の作者である松尾芭蕉も訪れています。元禄2(1689)年3月末、松尾芭蕉と弟子の河合曾良は『おくのほそ道』の旅に出ました。7月13日には越中国に到達し、加賀を経て福井に入った芭蕉は、月を観賞するために敦賀を目指します。「あさむづの橋」「鶯の関」を過ぎて「湯尾峠」を越えて、「燧が城」を経て、仲秋の名月の前日である8月14日に敦賀に到着しました。
湯尾峠へは歩いて登ることができます。湯尾の集落から峠へ続く道へ入り、山の中をしばらく歩くと石段が見えてきます。そして、その石段を上がったところで道が大きく折れ曲がり石垣が見えます。石垣に沿って登ると頂上の平場に出ます。湯尾峠の頂上には現在、芭蕉が詠んだ「「月に名をつゝミ兼てやいもの神」の句碑があります。この句は『おくのほそ道』には載せられていませんが、大垣の門人による写「芭蕉翁月一夜十五句(ばしょうおうつきいちやじゅうごく)」(『荊口句帖(けいこうくちょう)』所収)の中にあります。
敦賀市(福井県)
けいの明神(氣比神宮境内)(けいのみょうじん(けひじんぐうけいだい))
【指定・登録種別】国指定名勝
けいの明神(氣比神宮境内)は福井県敦賀市にある氣比神宮のことで、境内全域が国指定の名勝になっています。また、江戸時代前期の正保2年(1645年)に建立された大鳥居は、国の重要文化財に指定されています。
『おくのほそ道』において松尾芭蕉は「名月はつるがのみなとに」て鑑賞しようと、元禄2年(1689)旧暦の8月14日、中秋の名月の前日に敦賀に訪れました。芭蕉は敦賀の宿の主人から、鎌倉時代、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)が氣比神宮の大鳥居前がぬかるんでいたのを、手ずから砂を運んで直したという故事を聞き、その夜に氣比神宮へ夜参に出かけました。そこで遊行が直したと伝わる参道を進み、大鳥居をくぐって境内で月夜を堪能し、「月清し 遊行のもてる 砂の上」の句を詠みました。
氣比神宮は昭和20年(1945)の空襲で大きな被害を受けましたが、当時と変わらず残る大鳥居と、境内から見る名月は、芭蕉が見た風景を伝えています。
鐘塚(かねづか)
鐘塚は福井県敦賀市金ヶ崎の金前寺(こんぜんじ)境内にある石碑です。宝暦11年(1761)10月12日に建立され、表面に松尾芭蕉の句「月いつこ 鐘は沈める うみのそこ」が刻まれています。建立の経緯をまとめた句集「白烏集(はくうしゅう)」とともに、敦賀市指定文化財になっています。
金ヶ崎には沈鐘伝説として、南北朝時代、金ヶ崎城の戦いで敗れた南朝側の陣鐘が海に沈んでいると伝わっています。その話を聞いた芭蕉が詠んだ句が「月いつこ」であり、「おくのほそ道」には収録されませんでしたが、大垣藩士の宮崎太左衛門が残した荊口句帳(けいこうくちょう)には芭蕉がおくのほそ道の旅において詠んだ月の句の中で、「金ヶ崎雨」の表題で記されています。
関ケ原町(岐阜県)
常盤御前の墓(ときわごぜんのはか)
公式HPはこちら関ケ原町の山中地区の西端北側に杉の木立がある。その下に宝居印塔の2基が建ち並んでおり、向かって左は常盤御前(源義経の母)のもので、その右手は侍女の千種のものとされています。
この地は、常盤御前にまつわる「常盤伝説」の中の一場面の伝承地となっています。
この地に残る「常盤伝説」の一場面を紹介します。
常盤御前は元々、近衛天皇の皇后九条院の雑仕であったが、源義朝の愛妾となった。今若丸、乙若丸、牛若丸(義経)の母でもあります。
源氏は、平治の乱の乱に負けてちりじりになりましたが、牛若丸が鞍馬山を抜け出して東国に走ったと聞き、常盤御前は侍女の千種を連れて牛若の後を追い、この地までやって来ました。ところが、ここで土賊に襲われ殺されてしまいました。
それを哀れんだこの地の村人はここに葬り、塚を建てたと伝えられています。
その話の続きとして、その母親を殺した土賊6人を、牛若丸は皆殺しにして、母の怨みを晴らしました(岩佐又兵衛の12巻にのぼる絵巻物より)。
貞享元年(1648)9月、初めて芭蕉が美濃に来訪しました。
関西からの帰路で、この塚に立ち寄り、句が詠まれました。その句碑が墓の後ろにあります。
「義ともの心に似たり秋の風」
この句は、伊勢の守武の和歌である「月見てや ときはの里へ かかるらん義朝殿に 似たる 秋風」が下敷きになっています。
「常盤御前の墓に吹き寄せる秋風が常盤御前の夫の義朝の心に似通っている」と詠んでいます。
寝物語の里(ねものがたりのさと)
公式HPはこちら車返しの坂から国道21号を横切り、JR東海道線の踏切を渡って柏原宿の方面に少し行くと、前方左端に見落とすくらいの溝があります。この溝が美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の国境である。ここには国境の標柱が建ち、寝物語の伝承が残ります。
「寝物語の里」を紹介します。
1184年(寿永3年/元暦元年)、源義経が後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられてから、兄の頼朝との仲が悪くなり、奥州の藤原秀衡を頼って落ちて来ました。
それを聞いた静御前は、後を追ってここ長久寺まで来て、近江側の宿に泊まりました。隣の美濃側の宿から聞こえてくる大声には、どうも聞き覚えがあり、もしやと思い、寝たままで壁越しに聞きました。
「もうし、その声は江田源蔵広綱さま(義経の家来)ではありませんか。私は静でございます。」
「いかにも江田源蔵広綱だが、静御前さま、またどうしてここに」
兎に角声の主が源蔵だったので、御前は、ほっとするやら、喜ぶやら。
「私は、義経さまを慕ってここまで来たのですが、一緒に来た家来は途中で捕らえられてしまい、心細くてなりません。どうぞ私を奥州まで連れて行って下さいませ。」
必死に頼む御前の願いを、家来の源蔵が断る訳はありません。家来の源蔵も義経の後を追っていたのです。
これが寝ながらの、美濃と近江の両宿からの話のやり取りだったので、この土地の衆がこの地に「寝物語の里」という名が付けられ、今の世に語り継がれています。
貞享元年(1648)12月23日、この地を過ぎたあたりで、芭蕉は句を詠みました。
「正月も 美濃と近江や 閏月」
正月を里で迎えようとする芭蕉が、美濃と近江の国境を過ぎようとしたところ、寝物語の伝説を思い、「正月に閏月があったならば、美濃と近江で2度の正月をすることができるのになあ。」と詠まれた句です。
不破関跡(ふわのせきあと)
公式HPはこちら【指定・登録種別】岐阜県指定史跡
不破関資料館の南、中山道際に「関月亭」があり、ここが不破関守跡であり、県指定史跡です。
672年の壬申の乱後、不破道の重要性から、不破関が設置され、天下の変乱に備えられたとされています。不破関は越前の愛発関、伊勢の鈴鹿関と共に古代三関と言い、天皇皇后が崩御された時、皇族重臣等が死亡した時、或いは都で謀反を起こす者のあった時などには、必ず固関使(固関の指令を伝えに来る勅使)が派遣されて関が封鎖されました。
桓武天皇の在位中の延暦8年(789)、世の中もおだやかになり関の必要性がなくなったため停廃されました。しかし、必要に応じて関跡を固めることは、その後も長く続けられました。
今の三輪家の庭園は、関守跡の一角で鎌倉時代以後歌枕として名が知れ渡りました。不破関屋の板庇の名残りでしょう。今は荒れ果てた不破関跡の板庇から見る月に風情があったのか、この地で詠った句には「月」を詠んだ句が多くあります。
庭園内には、芭蕉の句碑が残ります。
「秋風や 藪も畠も 不破の関」
この句は、板庇ではなく、昔を懐かしんで藪や畑に視点を転じて詠んでいます。この句碑は、以哉派七世の野村白寿坊が建立しました。
垂井町(岐阜県)
垂井の泉(たるいのいずみ)
公式HPはこちら【指定・登録種別】岐阜県指定史跡
垂井の泉は、玉泉寺の門前南側から湧き出ており、井口は、約2m四方で、周囲に玉石垣をめぐらしています。傍らに「垂井の泉」の四文字が刻まれた碑が立っています。この泉は『続日本紀』天平12年(740)12月癸丑朔条にみえる聖武天皇が行幸した「曳常泉」にあたります。
また、垂井の地名の起源ともされ、その初見は、11世紀に美濃国司を務めた藤原隆経の「昔見し たる井の水はかはらねど うつれる影ぞ 年をへにける」という詠歌が知られています。松尾芭蕉は元禄4年(1691)、垂井の地を訪れ「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」の句を残しています。明和8年(1771)に垂井宿本陣家出生の儒学者、櫟原踅斎が泉のほとりに泗水庵を建て、安永4年(1775)に芭蕉の句碑を建立しています。天明年間(1781~1789)に庭園化し、明治18年(1885)に垂井神社や石橋などが整備されました。
作り木塚(つくりぎつか)
公式HPはこちら【指定・登録種別】垂井町指定史跡
松尾芭蕉は、元禄4年(1691)、垂井宿内にある本龍寺の第8世住職の規外を訪れ、「作り木の 庭をいさめる 時雨かな」の句を詠み、記念として雪見の像を贈りました。その後、この芭蕉の滞在を記念し、以哉派の第7世道統・野村白寿坊と本龍寺11世住職・里外が文化6年(1809)に作り木塚を作り、「美濃垂井規外がもとに冬籠もりして 作り木の 庭をいさめる 時雨かな はせお」の句碑を建立しました。
作り木塚には、以哉派第6世道統・大野是什坊の死を悼んで建立された「朝暮老人塚」や、同じく是什坊の句碑「蜂の巣や 知らぬきのふを あふながる 傘狂」のほか、同門の第15世道統・国井化月坊の「一二丁 笠わすれたる 清水哉 七十六叟化月坊」の句碑が建てられています。
南宮大社(なんぐうたいしゃ)
公式HPはこちら【指定・登録種別】国指定史跡
南宮大社の祭神は金山彦命ですが、創建は定かでありません。『延喜式』に「不破郡三座」のうち「仲山金山彦神社明神大」とみえるほか、『続日本紀』承和3年(836)11月己巳条には「美濃国不破郡仲山金山彦大神、奉授従五位即預明神」などとあります。「南宮」の社名については、『扶桑略記』天慶3年(940)正月24日条の平将門調伏に関する「有勅遣延暦寺阿闍梨明達於美濃国中山南神宮寺令修調伏四天王法擢授内供奉十禅師、(後略)」や12世紀前半の成立とされる『今昔物語』の「国人皆心ヲ一ニシテ南宮ト申ス社ノ前ニシテ百座ノ仁王講ヲ可行キ事ヲ始ム(後略)」などが確認できます。社殿によれば、もとは府中に祀られていたものを崇神天皇の時に現在地に移したといわれ、府中の国府から南方にあたることにより「南宮」と称されるようになったともいわれています。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で社殿は焼失しましたが、寛永19年(1642)徳川家光の発願により社殿の再建が始まり、寛永20年(1643)に現在の社殿が完成しました。
『おくのほそ道』の作品中に、垂井の地名は出てきませんが、北陸路で芭蕉と分かれた曽良の日記には、元禄2年(1689)8月14日に南宮大社の不破修理を訪れたという記述があります。
大垣市(岐阜県)
大垣船町川湊(おおがきふなまちかわみなと)
公式HPはこちら【指定・登録種別】国指定名勝
大垣船町川湊は、岐阜県大垣市船町に位置し、揖斐川(いびがわ)の支流水門川(すいもんがわ)の川湊として、往時の趣を感じることができる風景地です。
船町川湊は、大垣藩により慶長年間(1596~1615)に大垣城下に整備されて以降、西濃地域の人・物資・文化の交流拠点として人々の生活を支えてきました。松尾芭蕉は、東北・北陸地方をめぐった『奥の細道』の旅において、元禄2年(1689)8月下旬、大垣に来訪し、地元の俳人たちと交流を重ねました。そして、9月6日、船町川湊から伊勢へと旅立つ際、大垣の人々との別れを惜しみながら、「蛤のふたみにわかれ行秋(ゆくあき)ぞ」と詠み、俳諧紀行『おくのほそ道』のむすびの句としました。
金生山明星輪寺の芭蕉句碑(きんしょうざんみょうじょうりんじのばしょうくひ)
公式HPはこちら芭蕉句碑
明星輪寺
金生山にある明星輪寺は、本尊が日本三大虚空蔵の一つ、宵虚空蔵(よいのこくぞう)で知られ、「赤坂の虚空蔵」として有名です。薄暗い本堂の中には、岩窟深く虚空蔵菩薩が祀られています。境内の一部を占める岩巣公園(いわすこうえん)は、石灰岩質のカルスト地形で、無数の奇岩怪石が群立している自然公園です。
また境内は、ヒメボタルの生息地としても知られており、初夏の深夜にかけて光り輝くさまは、とても幻想的です。秋になると、鮮やかな赤色の彼岸花と紅葉に彩られます。境内地や急こう配の参道からの眺望は、広大な濃尾平野を一望することができます。
『奥の細道』の旅で、大垣を訪れた芭蕉は、元禄2年(1689)8月28日に船問屋の木因に連れられて、明星輪寺の虚空蔵を参拝しています。その際、詠まれた句「鳩の声身に入(しみ)わたる岩と哉(かな)」を刻んだ石碑が参道沿いに建立されています。
美濃路大垣宿本陣跡(みのじおおがきしゅくほんじんあと)
公式HPはこちら美濃路大垣宿本陣跡
芭蕉句碑
【指定・登録種別】大垣市指定史跡
美濃路は、中山道垂井宿(現・岐阜県不破郡垂井町)と東海道宮宿(現・愛知県名古屋市熱田区)とを結ぶ全長約58キロメートルに及ぶ街道でした。中山道の木曽谷、東海道の鈴鹿峠や七里の渡しといった難所を避けることができるため、江戸と国許を往復する参勤交代の大名のほか、朝鮮通信使や琉球使節、将軍家に献上するお茶壷道中などにも利用される街道でした。
また、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの後、徳川家康が凱旋を果たした道であったことから、「御吉例街道」とも呼ばれています。
美濃路の宿場町の一つである大垣宿には、本陣(現・大垣市竹島町)、脇本陣(現・大垣市本町)、問屋場(現・大垣市竹島町)がありました。
元禄2年(1689)8月下旬、芭蕉は『奥の細道』の旅で大垣を訪れた際、大垣藩士・高岡斜嶺邸にて門人たちと交流し、斜嶺邸から見える伊吹山を褒め称えて、「其(その)まゝよ月もたのまじ伊吹山」と詠みました。その句を刻んだ石碑が、美濃路大垣宿本陣跡敷地内に建立されています。
伊賀市(三重県)
俳聖殿(はいせいでん)
公式HPはこちら【指定・登録種別】国指定文化財
俳聖殿は、昭和17年(1942)、芭蕉生誕三百年を記念し、伊賀文化産業協会長であった代議士川崎克が私財を投じて上野公園内に建設した建物です。
設計には、建築家伊東忠太の指導のもと、島田仙之助があたりました。木造檜皮葺きで、上層は丸形、下層は法隆寺夢殿を参考にしたという八角形という重層構造の建物になっています。上部の丸形の屋根は旅笠、下部の八角型の大庇は衲衣、周囲の円柱は脚絆と杖を示しており、全体として芭蕉の旅姿を表しています。
正面の扁額「俳聖殿」は、川崎自らが揮毫したもので、内部に安置される伊賀焼の芭蕉座像も、長谷川栄作の原型を川崎が自ら築いた窯場で焼いたものです。
毎年、芭蕉の命日にあたる10月12日には、この俳聖殿の前で芭蕉祭が行われています。平成22年(2010)に重要文化財に指定されています。
史跡芭蕉翁生家(しせきばしょうおうせいか)
公式HPはこちら【指定・登録種別】伊賀市指定文化財
伊賀国で生まれた芭蕉が 30歳ごろまでを過ごした家のあった場所です。現存の建物は、芭蕉が生きた当時のものではありません。芭蕉は、伊賀在住時代に俳諧に出会い 、その後、俳諧師になるべく江戸に出ました。
江戸に出たあとも、芭蕉は帰郷のたびにこの生家で過ごしました。貞享4年(1687)、数年ぶりに帰った伊賀で、臍の緒を見せられ亡き母を思い出した際の句「旧里や臍の緒に泣としの暮」(『笈の小文』)、元禄7年(1694)、親族一同で墓参りをした際の句「家はみな杖にしら髪の墓参」(『続猿蓑』)など、多くの名句が詠まれました。また、同年には、伊賀の門人たちの尽力で「無名庵」という庵が新たに敷地内に建てられ、 芭蕉は、その礼を兼ねて、8月15日に門人らを招いて月見の句会を催しています。
なお、無名庵は、芭蕉没後、愛宕神社境内など、各地に移築され継承されましたが、近代に入り失われました。
昭和30年(1955)に伊賀市(当時の上野市)の文化財として指定されています。
蓑虫庵(みのむしあん)
公式HPはこちら【指定・登録種別】三重県指定文化財
蓑虫庵は、芭蕉の弟子である土芳の庵です。 貞享5年(1688)に創建され、創建直後に芭蕉が訪問しました。この時「みの虫の音を聞きにこよ草の庵」の句を贈ったことから、この庵を「蓑虫庵」と称するようになったといいます。以後、芭蕉が句会を行った場所としても知られ、伊賀における俳諧の中心地となりました。
庵主である土芳は、ここで、芭蕉の死後、その偉業をまとめ、俳論書『三冊子』や、芭蕉発句集『蕉翁句集』などを執筆しました。
芭蕉七十回忌を迎える宝暦年間(1751~1764)には、俳諧中興の機運が高まるなかで、芭蕉五庵(東麓庵、西麓庵、無名庵、瓢竹庵、蓑虫庵)の一つに数えられるようになりますが、このうち現存しているのは蓑虫庵のみです。江戸時代から荒廃してはそのたび、桐雨や猪来などのゆかりの俳人たちが再興し、代々芭蕉の遺品なども伝えられました。
昭和13年(1938)に三重県に史跡及び名勝として文化財指定されました。